文化 その十 若手の生態⑥ 多国籍
たまに電車内で宮崎弁を聞くことがあります。
そんな時、「恥ずかしさを覚えるのは宮崎県人の恥」、そう恥じ入るのでありますが、それでも声をかける勇気はなく、もちろんそっぽを向くわけでもなく、ただ懐かしく聞き惚れております…。
東京も早40年超、未だ「箸」の発音が不安定でありまして、コンビニでは「割り箸を下さい」と囁くのです。
それにしても昭和晩期の榊原、何故にあれだけ多く多国籍の若手が集まったのでしょう。
当然に東京文明の修得という共通項の目的はあるものの、時に稚拙で時に抜き差しならぬ丁々発止…、右に左に自由奔放、郷里の文化と思想を背負ったお国訛りが飛び交うのでありました。怯え、恥じらい、物珍しさという、まれびとを迎えた古代の縄文人の気持ちが分かる気がした次第です。
そんな日々を過ごす研修医たち、それでも懸命に物を言おうとする態度だけは病院からも患者さんからも評価されていましたね。
でもそれはまだまだ標準語ではありません。しかし、おおらかで全てに遊び心を含むやや擬音多めの物言い…、生きた言葉として実感するのか、ほっとするのか安心するのか、むしろ積極的にやり取りを楽しむ風情もございました。
研修医内の会話もまたそうでした。標準語の中にしんみりと残る方言の余韻に、決して故郷を裏切らないという矜持を感じましたね。そして、何とか標準語にしたいという努力の中にも、同輩感や同郷感、そして独創性が循環しておりました。
もちろん、雄弁でもなく教養を感じる訳でもなく、新しい世界観もないのです。がしかし、それぞれの話し様は魅力的です。一人ひとりが持つ言葉の含みによって、手術人が持つべき手術以外の機能性と感受性が研ぎ澄まされていった感があります。そしてまた、他者への気遣いという懐いもまた同時に、実に神経質に保たれておりました。
あの当時、病院内のいざこざはまず無かったように思います。
最近、富にそんなことを思い出すのであります。
どうやらそこには、彼らが持つそれぞれの文化、つまり、身に染み付いた方言には緩和の心が自然に内包されていたのではないか、やたらにそんな気がして来ましてね。
方言ゆえに、お互いに含羞の機能が働くのでしょうか、それとも、方言含みゆえにお互いの含羞を抑制することもできるのか…。いずれにしろ、同じ体温で話そうと努力する標準語らしき言語、それは間違いなく、日本語特有の緩和と言っていいのでありましょう。
お国訛りは確かに文化であります。非常に心地良いものです。
そうそう、それが緩和だからこそ、色んなものが直ぐに現実的なものになっていきますし、必要でなければいい加減に直ぐに消えてしまっても問題は無いのです。実におかしくもあの当時、東京という空間から自分を守る壁が段々と消えていったのをよく覚えております。
自慢ではございませんが、九州在住時には、九州弁だけで数ヵ国語を操っていた小生はお陰さまで、東京進出後は全国規模でその数が増えましてね、晴れて都会人の仲間入りを果たしたのでございます。
それは榊原も早4年が過ぎて、そろそろ研修期を抜け出そうとしている頃おいでございました。全国地図を眺めながら、日本語が持つ緩和とその文化圏の大きさに心が打ち震えたのをよく覚えております。ああそうだ、ちょうどその時でしたね。埼玉県が東京の西ではなく北側にあると発見したのは…。
研修医だったあの当時、これまた自慢ではありませんが、忘れてはいけない、いや違いますね、忘れようもない事柄が沢山あった気がいたします。その中でも、研修医であればこそ生まれたお互いの緩和が、我々成長すべき手術人の心の支えになっていたことは間違いありません。その緩和心は40年経った今でも、迷惑そうな顔つきではありますが、文化らしい仕草にてこちらを診ている気がするのです。
ああそうか、そうであれば、当ブログ「その一」で申した「文化らしきもの」とはもしかしたら…、若手が上等に生存かつ成長する環境をふと感じてしまっただけかもしれません。文化=若手、そんな妄想が湧いてきます。
多少大仰で僭越ですが、何だか生まれて初めて、一つの正しい感動の仕方を持って一つの感動を味わっている…そんな気がいたします。小生としては、珍しくも正しい態度だと実感するのでありますが、如何なもんでしょう…?
続きます。
「今年の方位さ北開げでらはんで、岩木の大神さまもご機嫌だ。奴岩木山さ登るのであれば、バス神も夫婦神も親子神も参加するどのごどですた。わんどもお囃子で精一杯応援すますじゃ。とごろでバス神はちゃぺバスでがぐみの歌、こそっと練習すてららすい。どごで披露するのだべが…」
(当ブログ 夏が来れば思い出す 参照)