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コラム

文化 その十一 若手の生態⑦ 教育-1 慣れる

突然ですが、今現在の小生にとって、小児心臓外科医としての光栄とは何でありましょう? 
それは一つだけですね。子どもたちが新たに築く人生を垣間見れることであります。そして、そこにもし一旦でも、「ああ、やっぱ良かったな」、そんな懐古的な思いが湧きますと、外科医はただそれだけで自分を保つことができます。「今日もまた頑張ろうか」、そんな不思議な感慨を持てるのです。
自分でも何とまあ幸せなことだと思います。やはり大変な光栄を貰っていると言っていいのでしょう。
この「ああ、やっぱ良かったな」との思いは間違いなく…、心の何かしらを埋め戻してくれます。

外科医は慣れるという言葉をよく使います。例えば手技に慣れるとか、術後管理に慣れるとか、上司の叱咤に慣れるとか…。
例えば、辛かったことや悲しかったことに関して、この「慣れる」ということを心のレベルで捉えるとすれば、心の表面にできた傷、つまり喜怒哀楽の凸凹を均していく作業と考えることができます。慣れるとは心の補填と言ってもいいでしょう。もちろん、逃避行、もしくは自己防衛反応でもあります。
特に手術人の世界は、省怒哀坎などのダメージを多く受けやすい。ですから、心を繕ってあげる…いや当たり前に均してあげる…、つまり直ぐに慣れていく、そういった環境もまた大切なのです。
そうすると、術に限らず、手術三昧に耐えうる心もまた創れるのではないかと思います。結果として、外科医独自の緩和心もまた余裕を持って育っていく、つまり、慣れることで、手術を中心とした集団の中で太っ腹という力を持てるのです。それを翻って申せば外科医の「大きなお世話」、それこそが外科医の「察し案じ」という矜持だと考えます。
そんな時です、仲間たちが…、もしかしたら親御さんたちも、「先生、アンタしつこい、大きなお世話やわ」と本気で呆れるのであれば、その太っ腹はホンマモンでしょう。そこには皆で悲しさや辛さに打ち勝つための文化が生まれます。分かりにくい話で恐縮ですが、小生にはそんな経験がままあるものですから敢えて申す次第です。

多分に無理くりですが、「悲しみや辛さを思い出す、そして慣れてまた思い出す」、そんなところにも研修期に受けるべき教育の基本がありそうです。手術は「手の術」ですから術に差がつくことがありますが、そういった環境では、緩和だけは平等に育つのです。
小生は今でも、「ああ、やっぱ良かったな」、そう平々に思うことがあります。そんな思い出に補正に補正を重ねますと、とても気が楽になりますね。それは以前として、手術に色気を感じている証拠でもありましょうか。

さて読者の皆さま、今回からは暫しの間、研修期に受ける教育のお話が続きます。
定年を過ぎていい年と言われるようになりますと、何でも都合よく考えるようになってしまいます。そんな都合の良いことをいつも通り、まずは烏滸がましくも我田引水、傷を舐めるようにそろそろ始めることにいたします。乞うご期待。

続きます。

「わっきゃなんもしゃべれねえな、小路なんてもうすばらぐ行ってねすな。ちなみにわんどのごど覚えでらんず。若干存在感薄ぇのばって、晴れで2回めの登場だ。ちとめぐせばってね。とごろで、小路集合は何時だ? 岩木スカイラインちゃぺバスで下りでえがねばなねはんでな」