文化 その九 若手の生態⑤ 勘
緻密な計算をもとに直感力を組み重ねる…、手術は科学でありますが、勘で物を言う、勘で結論を悟る、そんな世界でもあります。
この勘というもの、ロートル外科医ほど疎かにしません。
自分にも他人にも出来る限りの厳しい現実を強いますし、一方で自分にも他人にも無理くりにロマンチシズムを求めます。それは勘を大事にするが故のこと、本人の経験でもございまして、そういう現場であればこそ有用な勘が働くのです。いやはや多分に面倒なことです。
そして外科チームというものは、反省というよりは再咀嚼する、良きことも悪しきことも捨て去ったことも何度も拾い上げる、そんな泥臭い道を歩きながら確固たる証拠を構築するのであります。咀嚼するのかしないのか、拾うべきか敢えて拾わないか、そのあたりもまた勘ですね。これまた厄介なことであります。
確かに勘というもの、有ればあれで誠に迷惑なものであります。勘が鋭すぎる外科医はチーム医療に最も不向き、そんな烙印を押されることもあるのです。
それでも勘は外科医にとって最も重要なギフトだと思います。勘が働かない、その恩恵も知らない、そんな外科医は逆に外科医でないと言われても仕方がない…、外科医の勘はやはり肝腎なものでございます。
さてそう考えますと、外科医の研修期は、五感だけでなく第六感を含めて、自分の勘を研ぎ澄ます期間と言っていいのかもしれません。敢えて無作法に申せば、お伽噺や冒険譚のような博打的な世界を垣間見ること、それもある意味外科医の修練でありましょう。
でもでも、そのようなデンジャラス感覚の「勘」はどうやって育つのでしょう。
結論を申せば…、いや申さなくとも、そんなモンあるはずがありません。調べようもありません。
でももし、勘がギフトであると仮定すれば、それはギフトの定義通り、神さまのせいなのでしょう。
がしかし、それを確かめに神社に行けば、またまた神さまに喧嘩を売ってしまいそうですし、行ったら行ったでややこしい処に連れ込まれそうな気もして、そして面倒臭くも、祈り人との宴会には必ず顔を出さねばなりませんし…。うーむ、いずれにしろ、何だかとても迷惑なことになりそうです。あまり近寄らない方がいいと小生の勘が囁くのであります。
で…ここからは小生の経験と希望を含めて、外科医の第六感で申し上げることに致しましょう。
勘を得る神速のコツとは…、それは時間の確保であります。
これは手術に限らないことですが、学びには、学ぶ時間に加えて、全く学ばない、いやむしろ学びを忘れる、そんな時間もまた沢山要る気がしますね。そのような時間でしか進化を促すギフトは生まれないのではないか、何やらそう感じるのです。そのギフトの一つが勘のような気がします。
ただそれは単に、無駄な仕事をさせないとか、余計なことをさせないということではありません。まして、何か他のことをさせるために、無駄でない時間、余計でない時間をポジティブに作ることでもありません。そうですね、学ぶという責務感を持たせないというべきか、いや、何もしなくていいという安心感だけを持たせると言った方がいいのか、それとも、幽体離脱して自身の身体を眺める気分というか…、いやいや、そんなこんがらがることを考える必要もありません。単に暇と感じさせればいいのです。もちろん「これはこうあるべき」などと、教科書的な決まり事を持ち出しはいけません。
勉学する身として、当然のようで当然でない逃避的な立場にいさせること、そんな処に勘が浮かんでくるのではないか…、これまた外科医の勘でありますが、多分に正しいかと思います。(心臓外科医の徘徊道 その五、その六参照)
ああそうです。あれはいつの頃だったか、ちょっと記憶が確かでないのですが…、多分、江戸某所での講演だったと思います。そのような「時間」のお話を訥々としておりましたらお決まりで一騒動起きましてね、客席からこんなお声がかかったのであります。
「おうおう、チョイと待ってくんな。そんナンはただの言い訳、単なる放ったらかしじゃねえか。勘なんてモンは、真っ当にやってりゃ自然と出てくるもんだ。むしろ出ねえ訳を考えなきゃ意味も何もありゃしねえんじゃねえのか?」
以下、小生のお答えを示しします。
「おっといけねえ、確かにそうかもしれねえでござんすね…。すまねえ旦那、ついカッコつけてしまいやした。
だけどよ、若い衆はテメエの夢を叶えにやってくるものと思わねえかい? だっからよ、真っ当過ぎる当たり前のことを見せてもしょうがありゃしねえ。
オイラの経験ですまねえが、コチトラが信じるマジで愉しみってえ代物は、むしろ博打らしい無駄ともいえる世界の中に転がっておりやしてね。当然旦那もご存じかもしれやせんが、何やらオモロイことは、つまり心に深く沈殿するような思いはそういった曖昧な時間から生まれるんでござんすよ。実に皮肉なことですな。しかも、その曖昧さ故に、テメエの心に沸き立つ思いを感じることもままあることでゴザンしてね。これまた何と皮肉なことでございますな…。
だから勘つう、少々危険とも思える奴はただただ付随的にできればいいのでしてね。若い衆には、ただただ勘に近づけそうな道だけをつけてやることが大切と考えるんでござんすよ。もち、近づけるかどうかは分からねえけどな…。
そしてこれまた僭越てえ奴でござんすが、もしそうならば若い衆は何となくボロ儲けした気分にもなるんでしょうな。明日もまた腹が減って目がさめるような豊かさも出てくるのでござんして、しっかり勉強しようかって気にもなるんでやんすよ。
そうですな、曖昧な時間てえ奴には、そういった不思議な麻薬性があるのかもしれねえ。そうすると若い衆は、曖昧が故にてめえから文化衝撃に飛び込んでみようっていうSM的気分になるみたいでね。それがあってこそ、何かが始まる、何かが生まれる、無ければ何も生まれる訳がありゃしねえ…、そんな気がしやすね。
だから、コチトラからそんなきっかけと時間だけを作ってあげることが大事ですな。それは何もしない責任も無い時間でげす。そうしてやがると、若い衆は、手術つう世界に、精神的にも物理的にも自分の居場所を作ることができるようになりますね。うん…? ああその点ですか、モチ合点承知しておりますぜ。心配には及びません。その時間の約一割弱は本人が泣く時間もきちんと計算して入れておりやすからね。
いやいや、なんやかんや言ってすまねえが、実はこれが若い衆に一番大事なんでござんす。
ですから、旦那の台詞を借りれば、まずは心の底から遠慮せずに時間を放ったらかすのです。意味ある行動はさせねえってことでやんす。
そんなトコに、外科医に似合ったデンジャラスな感覚、勘が生まれると信じますな。というか、そんなトコが無ければなあんにも生まれやしません。そうだあね、つまんねえ顔した奴はただただコチトラで面倒見ればいいのでござんすよ。こいつもまた、江戸っ子、いや、勘だけで生きてきた外科医の心意気、そう勘で思うんでやんすがね、どう思いやす?」
読者の皆さま、失礼しました。それにしても、勘だけでナンの結論も出ない一つ話とする外科医のあざとさ、ここまでくればもはや芸能であります。
でもまあ結局のところ、勘の実は個々の経験の統合なのでありまして、ある結論に至る仕草の訓練と、そこに流れた時間の奇縁をもって成り立つと言っていいのでしょう。
今の今まで、時間には翻弄され惑わされ遊ばれて、それでも自由自在に扱ってきた小生であります。最近の講演でも、「低侵襲での時間の重要性」について話すことがあるのですが、このお題はどうやら、この「勘に関する時間」というものを無駄に考えてきたから浮かんだ気もするのです。
そうですね、今までの妄想の中で、この勘と時間の関係ほど完璧な懐いはないと思うのでありますが如何…、いや申し訳ない、またもや妄想してしまいましたね。
でもでも、四捨五入、いや我田引水して三捨七入くらいすればそう言えるのではないか…、とこれまた思うのですが如何…、いやはや凝りずにすみません。
続きます。
「人間の思い、その中には直ぐに消え去るものがあるど思いますね。一方でずっぱど心さ引っかがり続ぐものもございますて、記憶ずより嗅覚もすくは味覚どすて残ってまるのであります。なるべぐ気になねようにはすてらのばって、そったのに限って、どうにもごうにも気になってまります。それ整理するのがお山のお役目でもござるべね。そうが、まだ奴がやって来るのが…しょうがねな」