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コラム

文化 その八 若手の生態④ 笊

謀反人(成長人)の低温沸騰に関して、
それは間違いなく、人あってのこと、そして場所あってのこと、
さらに間違いないことは、後ろめたさが触媒になるということ…、そうですね、小生は未だ誰かしらの声に従っている気がしております。
それにしても、40年ほど前のこととはいえ、研修時代のことを思い起こすのはシンドいですね。
面白いという感覚だけは残っているのですが、その理由と内容が何だったのか、どうにも思い出せません。むしろその時の天気だとか、利いた日本酒の酸味とか味噌汁の塩っぱさだとか、周りの記憶だけは鮮明でありまして、ナントモ…、皆さまも同様でございましょうか。

さて、小生の研修期とは一体何だったのでありましょう。今でもその正体がよくわかりません。
確かにあの当時は、面白いことに次のオモロいことが幾重にも重なり、結局お楽しみ処がゴチャ交ぜになってしまう、そんな毎日でありました。整理整頓しようもなかったのです。
しかし自慢ではありませんが、それでも真っ当に流されるそんな混沌さが、研修期の後に続く手術三昧の日々を楽にさせ、もっと面白くさせてくれたことは確かです。
そして余計にも、そういった日々に付随して時に現れる、小生のいい加減さ、我慢の無さ、出不精、人見知り、無趣味、人の迷惑顧みずの無節操など…、そんな始末に負えないものまでもが、小生の手術に何かしらを与えてくれたのではないか、そう妄想もしてしまいます。僭越ではありますが、手術の流れの美とその公益性にも何かしら良さげに集約していった気もするのです。
もちろん今更ながら、外科医の理想だとか、若手はこうあるべきだなんて、老醜を漂わせるつもりはありません。当然に期待するつもりもない…。ただ、そんな都合の良い思いだけが心の片隅に残っているのであります。もしかしたら、それが以前に発生した低温沸騰のやけど痕なのかもしれません。
そうですね、そのせいでしょうか。小生、研修期を終えて、特に40歳を超えたあたりからの人生は、「ある意味余生である」という観念が抜けきれないのであります。

さてさて、昔の記憶というもの、あまりにこだわりますと藪蛇になってしまいます。話を戻しましょう。
その当時に「近頃の若いモンは…」と言われた小生は、その当時に「昔に若いモン」だった輩から、これまた今も変わらず「近頃の若いモンは…」と言われ続けているのであります。この宿命的な妄言は還暦を過ぎた後も続いておりましてね、「還暦後は齢を減じる」と宣言した小生はお陰さまで、今のところずっと若いモンで生きております。
ただ最近気づいたことがあります。
それは、昔に若いモンだった輩の小生に対する眼というかフィルターというか、その目がかなり粗くなっているのです。まるでザルですね。もちろん、その輩に対する小生のフィルターの目も同程度にザル化しています。ただ小生のそれは多少違います。忖度上手な品あるザルなのでございまして、「近頃の年喰ったモンは…」などとは心の片隅でしか言わないようにしております。
それでも、この年々粗目となっていくお互いのザル的視点は、小生にとって望むべきことであります。何故なら……。

話が飛びますが、
手術には当然にそれなりの思想と合理性が必要です。それらは皆で大切に培うもの、手術の困難さに比例して大きく育つのであります。
しかし、あまりにも長く手術三昧のカオスが続いておりますと、老化というか老醜というか、思想と合理性そのものが手術自体をイガイガと圧迫するようになってしまいます。それは柔軟性が無くなるということ、分かりにくく言えば、手術用の筋肉が硬化して、脳が凝るのであります。
そんな時、近頃の年喰ったモンは敏感に感じるのでございましょうね。ピンポイントで「近頃の若いモンは…」の発言が飛び出すのであります。
もちろんそれに対して、近頃の若いモンの心の片隅は「ああまたかいな」とそれぞれに謀反を起こします。若いモンも既に一端の手術人ですからね。しかし不思議なことに、以前ほどに沸騰しません。沸騰後のこだわりも残さないのです。
想像するに、それは粗目のザル故のことなのでしょう。昔のように、大切にすべきものまで掬うことはありません。心の片隅に潜り込もうとする、無駄に大きくなり過ぎたガチガチトゲトゲの思想と合理性だけを掬うのです。今後大事に育つべき小さめの思想と合理性はサラッと濾過されますね。それはまさしく脳のほぐしであります。次に到来する手術三昧カオスのために備えることができるのです。
チーム進化の邪魔だけを排除する、そこに「近頃の年喰ったモン」の意義があります。それは「近頃の若いモン」の心の片隅にほんの少しだけ熱を与えて柔軟性を取り戻させること…、そうすることで「近頃の若いモンと呼ばれるモン」も、ザルの目の粗さとともに大人になっていくのでありましょう。
外科医の年の功とは、さじ加減に加えてのザル加減であります。

ところで、経年的に目が粗くなってザルは、その内に単なる輪っかとなるのでしょうか。
永遠に無さそうな気配もしますが、でもそんな時でしょうね。近頃の年喰ったモンが「近頃とっても良いモン」と改名するのは…、そして「近頃の若いモンは…」という発言は吉本新喜劇のお決まり事のように、お目溢し的な良き風情を纏うのでありましょう。

暫くは続きそうな「近頃の若いモンは…」という台詞は、手術室の若いモンにはとても大切なものです。その中には、昔に若いモンだった「近頃の年取ったモン」の創意工夫が見えますし、その精神に勇気までも感じることができるのです。
外科の世界に流れる懲りないザル輪廻…、恐らく暫くは消えませんね。
その予兆が無いことに今は少しだけ安堵しています。もちろんハラハラもしているのでございます。

続きます。

「よす分がった皆の衆。今夏、奴岩木山のてっぺんまで自力で登ったっきゃ、一端の登山家、いや、手術人どすて認めようだ。そえでいがい? へば取り敢えず、金魚は罰どすて、親方の柳田で今宵小路で飲む酒買ってごい。甘ったるぇのはまいね、とびっきりの辛口にすろよ。今回は討ぢ死にすねようにせねばならねで…」