心臓外科医の徘徊道 その六 道
野川の散歩に戻ります。
膝に少しの重みを感じつつ、「本日の散歩は無為とは言い難かった…」、そんな思いが胸をよぎります。
でもまあ、そんな時分もございましょうね。そんな時は早めに、新たな無為を求めることが大切です。決して自分の気持ちに逆らわないこと…、人間は素直が一番なのであります。
んな訳で、
「いやいや昼間からワリーね。」
反省をものともせず、ご機嫌麗しく、モリと熱燗を所望する小生…、今はもう、トクトクという擬音がとっても似合う、爽やかな季節なのであります。それにしてもこの情景、もし俳句の才能があるのなら、「無為」をお題に一句ひねり出せそうな軟派な気分でもありまして、もちろん、独りを慎んでいるのでございますが、御神酒をちょいと振り撒いた蕎麦に、図らずもむせてしまうのでありました。
深大寺の杜は、清明を超え、春土用を迎えて、そろそろと蒼くなっていくのです。
ところで、散歩というものは、「無為」たるものなのでしょうか?
今回の野川での徘徊、反省するとすれば、それは、一切合切が周囲360度アンテナ状態であったことにつきます。
つまり、春の趣を無理クリに探そうとしたこともそう、あざとくブログネタを捏造したこともそう、そして、そんな風雅な自分に酔いしれてしまったこともそう、そういえば、「君って大人だね」という幻聴がやけに大きく聞こえていました…、心を改め、「無為」の真意をスマホで検索し直した次第です。
さて、少し話しを飛ばします。
「大人ぶる」という言葉、小生は決して嫌いではないのです。でもでも…、
幼稚園児の皆さんには大変失礼ではありますが、「楽しかった」、「嬉しかった」、「美味しかった」、そんな片言英語のような幼児的思案の言葉が、自然に、口からポロリと漏れてしまう…、
そうですね、徘徊『道』の「無為」におきましては、若作りしろとは言いませんが、そのような純真無垢な心持ちがとても大切だと思うのであります。
大人っぽく浮ついた感情なんぞ必要ありません。あくまでも、内面から溢れ出てくる、無為になりたいという慎ましき積極性の一面だけ…、今回の野川徘徊は、そんな子どもっぽさが足りなかったのでありましょう。
申し訳ありませんが、その時に消費された熱燗3本のことは、取り敢えず棚の最上段に上げることにして、
徘徊「道」には、道草的な幼き不動心が永遠に不可欠…、
同じ散歩にしても味わいが微妙に違うように感じるのは、その時々の愛情の差によるもの…、
そんなことを思ってしまうのでした。
話はさらに飛びます。
ここ最近の小生、決して年をごまかすつもりはないものの、還暦後は、一つずつ齢を減ずることにしております。
それは、ポジティブな気持ちで「精神年齢を下げる」ということ、
結果、実年齢と精神年齢を足して2で割りますと、その答えはすべて「イコール60」、実にシンプルかつ不変な人生の方程式が生まれるのであります。
もちろん、80歳となった時に、40歳と言い張るのは少しどうかしておりますし、
確かに、愛犬に対して、「いけませんでちゅよ~」なんて、直ぐに幼児化する副院長はさらにどうかと思うのですが、
その程度の若作りは、他人の迷惑にはなりませんし、無為『道』修行中の身には、世の習いとしてちょうどいいのではないか…、そう思うのです。
少なくとも、「無為」に対して、是非や可否をつけること…、如何なものかと考えるのであります。
続きます。