心臓外科医の徘徊道 その七 環境
愛する日本の恒として(いや、そうなることを祈念して)、
たった今、「何もしない時間」を有難くも過ごしている、そして、周りの皆さんは、何もしない時間に浸る自分を気づかってくれている…、そんなお互いの意識と無意識、その環境は、まさに小生の本望…、これこそが「緩和」と思うのであります。
もちろんそれは、当ブログ(夏が来れば思い出す その八)で申した、大層かつひたすら御神酒的な緩和とは端から異なるもの…、
そうですね、それを敢えて言えば、“おまけ”の緩和と言えるのでございまして…、
でも、おまけだからこそ、
何処かしこに疲れている人あれば、「東西南北」こちらから恩着せがましく出向いてもいい、そして、「春夏秋冬」恩着せがましく接してもいい、そんな気がするのです。
小児心臓医療では、子どもたちも親御さんも仲間たちも、疲れていないといったら、それは嘘になります。
僭越ですが、正直今まで…、その皆さんも小生も、全ての方々が倖せになれるように努力してきました。しかしながら、これまた正直今でも…、未だ悩みまくることが多いのでございます。
でもそうですね、幸いにも、その度ごとに、つらつらと拙き妙案は出てくるのでありまして、「何もしない時間」という考えもまた、“こんなん出ました”的に、そして最後の砦的に、浮かんだのでありました。小生的には、今までの中で一番かもしれません(毎回懲りずにそう思うのですが…)。
一外科医として、何もしない時間が休むという『環境』であること、そして、病院がそういった環境を有していること、小児医療の緩和において、とても大切なことと信じます。
そこに、意味や目的は求めないのであります。ただただ、何もしない時間を過ごす人を誰かが見つめるのみ、少しだけ五感を開いてあげるだけ…、周りの人たちがそのように接するだけでいいのです。決して難しいものではありません。
そうそう、そういえば、あのホテルマンのいるホテル、あのテーラーのおじさんのお店もまた、そんな環境だったと思います。
今は、外と繋がればつながるほど、あまりにも多くのことが容易に変容していく時代でもあります。ですから、“おまけ”という考えの緩和もまた、改めて緩和として認識する必要がありましょう…。変わらずに取っておくことも決して無駄ではないのです。
何にもしなくても、自然に収まっていく環境こそが、本来の緩和であります。
ですから、今まで申してきた「何もしない時間」とは、自らが時間に棲み分けを求めるものではありません。時間自身と周りの方々が、何の衒いもなく、「何もしない時間」としてくれるだけなのです。
実はこのこと、人との出会いを多く作る秘訣でもありまして、単に寂しいとは思わせない環境…、それさえあれば充分だと思うのです。
続きます。