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コラム

心臓外科医の徘徊道 その八 鉄板

それでは最終稿、飛ばしまくります。
まず、記憶というものを考えてみましょう。
今まで随分と長く、これだけ狭い世界で過ごしていても、昔のことは、覚えていながらも上手く思い出せない…、いったい身体のどこの部分から抜け落ちていくのでしょうか。
一方で、映像としてしっかりと固定される記憶というものは、まずはお金が無い時代、そして、自分の立ち位置の右も左もわからない時代に、むしろ子供っぽく、色鮮やかなのであります。
そしてまた、年齢と責任が多少肩に乗るようになりますと、「昨日気づかなかったことに、今日ハッと気づいて記憶してしまう」、例えば、「ガチャピンがエガちゃんに見えてしょうがない」とか、そんなことが増えてまいります。どうやら脳は、そんな大人びた印象的な出来事を優先的に固定するようでもございまして、脳は退化しても、常に刺激という糧を欲しているように感じられます。愉しいとか嬉しいとか、そんな単純な感覚にはあまり興味を示さなくなるのです。

しかしそれでも、外科医というものは、喜びも悲しみも驚きも憎しみも、すぐに感傷というものに置き換えがち、そして、記憶に残しがち…、加えて、しつこくブログに書きがち…、そんな生き物であります。
そんな小生は、「榊原史上、最高に滑稽で如何にオモロいことをしたか」という点において、揺るぎなき見本を提示した外科医として記憶されそうではありますが、
ただ未だに…、
メニューに並ぶ日本酒の値段を見て、そっと眼を逸らすのはいつものこと…、相変わらず、根が小市民なのでございます。でも、自慢ではありませんが、種類によっては、味と値段に天と地の開きがあること、そして、それらの利幅をプロ並みに知っているから、決してボラれることはないのです。
これもまた、愛も変わらずの、「愛の酔いどれ手術人」たる所以なのでしょう。

次に、未来を考えましょう。
医学は刻々と進化しております。もしかしたら将来、小児心臓外科という学問は消滅しているかもしれません。
そうなれば、将来の若き医師たちは…、「鷺もいる、鯉もいる、真鴨もアオダイショウもいる…」、そんな風景を無為にブログに上げる昔の外科医のことなんぞ、知る由もない…、理解する由もない、そんな時代が来るのでしょうね。
しかし、そんな未来に、奇跡的にもしも…、
日本人の心としての緩和が、おまけ付きで、それこそ当たり前に生き延びているのであれば、
そして、野川を無為に徘徊する、御神酒好きの医師が数人でもいるのであれば、
また、小生のブログが、閲覧回数最低でも、ネットの片隅に残っているのであれば、
願わくば、烏滸がましくも、
「昔の小児心臓外科という学問は…、当時、医療に必須の美的風俗だったのかも」、そう思って欲しいと思います。
…不思議と今日は、何故かそんな風に、とりとめもなく盛大に、妄想してしまうのでありまして、
でももしそういった未来ならば、誰に遠慮することもなく、こそっと甦えってみようかと…、若き医師の良からぬ相談にでも乗ってみてもいいかなどと思うのでございます。
渡辺謙と松平健の違いが判らなかった小生が言うのも僭越ですが、
マツケンサンバのステップを踏むことができる間は、引き続き現世にて、散歩による「無為」の修行をせねばと、心に誓うのでありました。

さて、読者の皆さま、今回のお話しもまた長々と、お付き合い有難うございました。
小生はそろそろ、今宵の無為の世界へと(取り合えずまずは麦酒から)、失礼させて頂こうと思います。
鰻、冷や麦、大吟醸冷酒は、たとえ夏土用開けでも、残暑を無為にすごすための『鉄板』でございまして、台所からは既に、香ばしい匂いが漂っているのです。

このブログをお読みなっている皆さまが、このうだるようなこの時節、無為なお気持ちで過ごされるよう…、それでは、また…。

題 「昔一度だけ、魔除けに使われたことがあります。」