夏が来れば思い出す その八の二
『小児心臓外科学に限らず医学というものは、
「こうなったら愉しいだろうな」と願うことを目的として発展すること、もちろんあります。
しかし一方で、赤ん坊が亡くなるというような辛い思いをたくさん経験して、それが無くなるように努力そして進化してきた学問とも言えるのです。昔の赤ん坊や親御さん、そして手術人の心労というものは、今よりはるかに大きかったこと、容易に想像できます。』
さて読者の皆さま、あたかも「真面目の神さまが突然に降臨」したかのような文面および人格の変調、小児心臓外科医には偶にこういうことがあるのです。不躾ながら、皆さまの多少の戸惑いは無視させて頂きます。
小児心臓手術におきましては基本的に、
手術に伴う赤ん坊へのダメージを少なくし、回復が早くかつ合併症の無い手術を行うこと、これは明らかな「即即即の緩和」となります。
そして親御さんには、手術や治療の経過中の、不安を感じる時間をなるべく短くする、つまり身体も心も楽にさせる速やかな流れを提供すること、これもまた「即即の緩和」です。
そうしますと結果として、我々手術人もついでに、「即の緩和」となるのです。
それを拙著『榊原記念病院 低侵襲手術書』では、「総合的な低侵襲」と呼ばせていただきました。
手術の低侵襲には、本来大事にすべき3つの意味があります。
第一に、困難な手術を簡単にする手段、そして簡単な手術はもっと簡単にする手段。
第二に、救命がかなり困難と考えられても、浮腫や酸素化低下を少しでも軽減させて救命率を上げる手段。
第三に、術後は全身へのダメージが残り、合併症の発生もある。まずはそれらを予防する手段、そしてたとえ合併症が起きても、それに耐えられるだけの身体の生理的状態を保っておく手段。
つまり、まずはとにかく執拗に、「手術の嫌な部分をどれだけ排除できるか」ということ、それが低侵襲です。
結果このことは、時間短縮という手術の効率化につながり、そして、この効率化は進化して低侵襲の大きな好循環を作ります。
そうしますと、赤ん坊や親御さん、医療従事者が受ける心労時間も短縮でき、「緩和的な効率」という好循環も作るのです。
「外科的に考える緩和の意義」、基本中の基本はここにあると信じます。
さて、そういった緩和において、「外科的に最高の緩和である」と小生が強く感じたのは、それはまだまだ血液の問題が大きく、積極的に無輸血開心術を目指していた2000年前半…、
体重3~4kg心室中隔欠損症の無輸血開心術、その平均麻酔時間が90分、術後の平均挿管時間は5.5時間、結果としてより早期の退院が可能となった時代でありました。
この極めて良好な手術の流れは全て、仲間たちの努力によるものですが、しかし…、
このような数字で表す低侵襲状態の良否、そして低侵襲そのものの考え方というものは、時代とともに、また人や機器の変化に伴いまして、それこそ総合的かつ経年的に刻々変化していくのです。歴の長い外科医には、多少悔しく思うことも、正直度々あった次第です。
つい最近の講演で、「手術における低侵襲は、安全性と反比例するのですね」、こんなご指摘を頂いたことがあります。そう確かに…、
「手術における効率化はかえって危険」、「今の手術は安全だから、効率化に拘る必要は無い」という考えは今も存在します。
もちろんゆっくりと丁寧に、そして皆で足並み揃えてじっくりと、これらは決して間違いではありません。でも特に小児心臓外科医が、丁寧&じっくりという意識から抜け出せずにいることは、実際の臨床の場において…、特に緩和的には如何なものかと思うのです。
状態を安定させる「術」を知っているから、効率化が可能となる、
状態を安定させる「術」を知っているから、安全性が増す、
状態を安定させる「術」を知っているから、緩和も進化していく。
外科医は、緩和という側面におきましても、手術における患者さんへのサービスの本質、つまり「外科医本来の根っこ」だけは忘れてはいけません。
続きます。
しかし、こんなことをやっていますと、「ブログに嵌って手術はしてない」というような不平等感満載のご指摘が出るやもしれず…。
さて読者の皆さま、自分の仕事におきまして、その中のどの部分に、どの程度の比重を置いていくのがよいのでしょうか。これに関する意見は人それぞれ、そしてその時さまざまでございましょう。小生を思い起こしてみますと、30歳台のあの頃には、上司に対して「自分だけ手術して、ズル…」との不平等感と嫉妬感を抱くこと、確かにあったように思えます。それが今では、「手術はせずにブログだけ」と、もしかしたら思われているのかもしれません(この中には、「てめえサボってやがんな」という意味と、「俺だけが忙しくなるじゃん」もしくは「うちの旦那が家に帰ってこれないのよ」といった意味があるのでしょう)。
がしかながら…、全てをかなぐり捨てて手術をしていたあの頃の「手術への嵌り度と使命度と羞恥心」は、取り合えず羞恥心は横に置いといて、今現在の当ブログに対してと何ら変わりがないのでございます。あの当時、手術の数はもちろん、質におきましても、「これくらいだったらまあ心臓外科医としていいか」というような感覚を持ったこと、少なくとも無いのです。手術もブログも、自分とお相手のご縁で成り立つもの、そして誰かのために醸すものであります。ですから、もし、子どもや親御さん、そして仲間たちから、「アナタとにかく手術をやって下さいよ」という幸運なご縁を頂けるのであれば、それは超ラッキー、「これくらいでOK」という感覚は捨てて、「折角のご縁を独り占め」、まずはどっぷりと手術に嵌ること、如何でしょうか、今しかできないことだと思いますよ。そしてその内に、同じ嵌り度と使命度を持って、今度は違うものに嵌る時期がやって来るのです。仕事の比重は日々確かに動いていきます。
でも考えてみますと、年寄りが懲りずに手術をして、「年寄りの冷や水」と迷惑がられるよりは、年寄りが手術をサボることで「年寄りの温水」と言われた方がまだオモロイかと…、そうすると当ブログは「年寄りの温水ブログ」、こう考える初老のはっちゃけブロガー、またまた話題が広がっていきそうです。
先日のあるテレビで、こぶ茶バンドのお三方を拝見いたしました。何故かほっこりとした気分になるのは何故でしょう。その中で、仲本工事さん、80歳すぎてもまだバク転ができる気がするとのこと、いやはやスゴイもんです。そういえば小生、今の手術数はかなり減りましたが、ただ、暫く手術をしなくても、以前と同じような質で同じように周りに眼を配りながら、同じように手術ができます。若い時に手術の間が開きますと、かなり神経質になって次の手術に臨んでいたのですが、この「年喰っても誰にも負けない」という感覚は、まっこと不思議です。これが「年寄りの温水」の真骨頂なのでしょう。
さて皆さん、年を重ねるとともに、「今の年齢だから問われる」という、自分への運命らしき新たな使命、その内に必ず出てきます。この点に関して、特にもうそろそろ初老もしくは世代交代となられる皆々さま、何かお悩み事がございましたら、その時は任せて下さい。「当価値の価値感」を中心に、「手術への嵌り度と使命度と羞恥心」はもちろんのこと、「ブログへの嵌り度と使命度と羞恥心の極意」もついでに教えて差し上げましょう。
手術はもともと勇気です!そしてブログもまたまた勇気なのです!