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コラム

夏が来れば思い出す その八の三

『祈りを治療に活用する、これを「Prayer Therapy、祈りの療法」といいます。実を言いますと、実際の医療現場でもその効果に関する研究が沢山行われているのです。ある報告では、心臓病の患者さんへの祈りが、より良い治療効果をもたらしたとのこと…、しかしこういったお話しは、はたして本当なのでしょうか。うーん、本当かもしれませんね、そう思いたい…。利用できるものは何でも利用したくなるのが外科医の人情というものです。
でもでも、正月やお盆にはお祈りを欠かさないのが日本人ですし、神社や仏閣にただ黙って頭を下げるだけでも心がスッと軽くなること、確かにあります。特に、神職さんや僧侶の方々のお話しには、初めてお会いするのに安堵感があるといいますか、ついつい心を開いてしまいます。
あらゆる思いや期待、そしてこれから起こることを思い描くこと、それらは全て祈りであります。その通りの未来を生み出すことがあるやもしれません。しかしながら、「この赤ん坊を助けて下さい」ではなく、「この赤ん坊を助けて下さるんでしょうね、宜しく」と祈るのは、やはり神さまに喧嘩売っていることになるのでしょうね…、反省しています。』

さて読者の皆さま、「言葉を用いての緩和」ですが、この手段を具体的にお示しするのはとても難しい。まずは親御さんの話をよくよく聞いて、察して、そして案ずることしかないのかも…、
ヤツらの「愛ある鑑識眼」が羨ましいところでございますが、そこはただただ、大人らしい配慮を心がけることしかないのでしょう。

そこでまず、逆のお話しをいたします。
親御さんの病院生活におきましてはやはり、
十分に休める場所と言いますか、気持ちを整える場所と言いますか、無になれる場所と言いますか、逃げる場所と言いますか…、要は、独りで泣いてもいい場所があるということ、何よりも大切です。たとえ急性期治療の場であっても、そういった必須の環境は存続させなければなりません。
一方、この点に関しましては、我々医療従事者も同じです。
我々は真摯になればなるほど泣きますし、それで成長すること、ままあることです。経験上、その「あるある」の場所は、多くの本棚が並ぶ、夜間も鍵をかけていない、広めの図書室であります。
重厚な製本群に独り囲まれる感覚はまさに、
「言葉」で積まれたインカのピラミッドに守られる感、加計呂麻の純海にたゆたゆと包まれる感…、線路横の洋食屋のオーナーママに愚痴を聞いてもらう感…、孵化する直前の卵の風沢中孚感…、etc…。
もちろん一義的には、上司の顔など見たくもないという「感」も加わるのでしょうが…、
循環器専門病院の図書室は都会のかたすみにひっそり佇むBAR…、それはまさしく「臨床的緩和の昭和歴史的遺産」(当ブログ「錠前」参照)、…ですから、そこで個々人が感じる「感」、そして解き放たれる「感」というものは、小児循環器医療学の「永劫の物語」なのであります。
そういった静かな環境は、我々手術人、そして親御さんには『必須の無駄』として、つまり「無駄そうだけれども必須なもの」として、絶対に必須です。特に我々年寄りは、そういった「言葉を用いない緩和」とでも言いますか、臨床教育病院としての総合的な感性を絶対に忘れてはいけません。

さて申したように、親御さんに対する言葉での緩和は難しい。それでも一緒に祈ることはできます。
・手術前には、
「私ども親は手術を待つ間、何もできません、どうすればいいのでしょうか」というご質問を頂くことが多いのですが、「後は何とかしますから、祈って下さい。」と申すこと、よくあります。
・術後の赤ん坊の状態が悪い時には、
神社仏閣のお札やお守りを、ベッドサイドに沢山持ってこられることがあります。失礼ながら、これらは実に頼もしい助っ人です。今度はこちら側も一緒に、そこにいらっしゃった神さまと仏さまにお祈りします。中には、親御さんから病気平癒の神社やお寺について聞かれることもありまして、少なくとも榊原記念病院の周囲、東京多摩地区の神社仏閣には大変詳しくなりました。
神さまが本当にいるのかどうかは別として、また、宗教やスピリチュアルな問題も別として、親御さんは既にその神さまを信じ祈っているのですから、私どもはしっかりと遠慮なく寄り添って、その力を利用させて頂くのです。
・赤ん坊が亡くなった時には、
「よく頑張ったね」としか言えませんし、これもまたお祈りするしかありません。
しかし、助けられなかったことに関してお詫びを申す前に、親御さんからこちら側へ、励ましともいえるお礼の言葉を頂くことがあります。また中には、自分のお子さんと親御さんご自身の今後について、かなりスピリチュアルなお話をされることもあります。
我々はあくまでも科学的に治療を進める立場にありますが、なんだか逆に応援されてエネルギーを貰っているようで、緩和されたという気持ちになるのです。

何度も申しますが、「言葉を用いた緩和」はとても難しい。でも次回はそのあたりを、不完全ながら少しだけお話させて頂きます。

続きます。

病院の裏玄関です。もう20年以上もくぐり抜け、そしてくぐり入っております。色々と想い出深い場所でもありまして、最近では、泊まり込みが多かった昔には気づかなかったその時々の景色を見せてくれるのです。そんな写真を若手に自慢気に見せるのですが、それに対する称賛の感想とは裏腹に、微妙な表情が帰ってくることが多々ありまして、そんな時に、「もう少しいい写真、撮ったろか」と張り切る自分がとても愛おしく思えるのは何故なのでしょう。
長年付き合ってきた病院の、それぞれの場所が示すそれぞれの表情に心をほんの少しだけ動かすこと、そして自分の愛する病院に少しだけ心を緩めてあげること、それは一緒に働く仲間たちに対する思いと同様に、たまには大事にすべきと思うのです。でもしかし、いずれゆっくりとしか感じざるを得ないことはなるべく感じないようにさせておくことも、若手への大事な教育の一種でもありましょうか? うーん、こんな考えはまあ年喰った証拠でしょうな…。