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コラム

手術と音楽 第四章 心

『緊急手術の麻酔を担当する若かりし頃の小生、旧病院の2つの手術室には、当時最新鋭の大型ダブル・ラジオカセットレコーダーが鎮座しておりました。
「午前零時にまたお会いしましょう」 JET STREAM城さんの声がfade outしていきます…。そして、オールナイトニッポンの「Bitter Sweet Samba」が遠慮がちに響き渡っていくのです。
これで幾たび、手術室の皆さんとご一緒に、この同じ時間軸を過ごしたことになるのでしょう。』

読者の皆さま、おはようございます。
このブログは「落ちないように祈りなさいと書かれたバンジージャンプの誓約書みたい」、そんなお褒めの言葉をいただく今日此の頃でございますが、お変わりございませんでしょうか。

さて早速ですが、小生の研修医期の「甘ったるい思い出」にて失礼いたします。
ベテランの方々に叱咤叱責譴責されながら手術室三昧の日々を送っていたあの当時…、
けっこうな心臓手術の麻酔を夜中にたった一人でかけていたあの当時…、
4万5千円の月給にて、でも無給の先生方よりは「まだまし」と納得させられていたあの当時…、
そして、
ナウな感性を持つ手術人が少なかった手術室にも拘わらず…、
上司の音楽の趣味が信じがたきセンスであった手術室にも拘わらず…、
真夜中にサザンを大合唱して婦長さんにこっぴどく叱られるような手術室だったにも拘わらず…(当ブログ 外科医の浪花節 その五参照)、

そんな手術室で、カセットテープを甲斐甲斐しくもまめまめしくセットし直す、午後23時の27歳の小生…、そんなある夜のことでした。
実にスピリチュアルなことでございましたが、
この東京砂漠のドまんなか、ミッドナイト新宿の大型ラジカセから解き放れるメロディー…、
その中に幾つか、「これは小生ただ一人に作られた旋律である」との妄想に駆られる瞬間があったのです。そうそれはまさに、「ビヨンセ」が小生のためだけに歌ってくれているような…。
その瞬間に生半熟外科医の心に漂った感情、それは…、広辞苑でいくら検索しても表現する言葉が見つけられない、何だか多くの思いを綯い交ぜにしたかのような、淡くも崇高なもの…、
多分に記憶は薄れておりますが、とにもかくにも「手術にだけはしがみついてみようか」という摩訶不思議な決意らしきものが芽生えたこと、それだけはよく覚えているのです。もちろん理由も何もわかりません。恐らく都会生活の何かに負けそうになっていたのでしょうか…?。
あえてその時を例えるならば、「Sakakiバーラな刹那の降臨」…。(いやそれは多分違う…)

小生、音楽に関する専門的な知識はもちろん、心霊学的な能力も全くございません。がしかしながら…、
ミッドナイト新宿(正確には代々木)に流れる「音楽」たちは、その季節ごと、その時代ごとに、若き外科医のか弱き「魂」をいたわり、そして優しく慰めたこと、間違いないのです。
ベタになりますが、地味で過酷な世界にいればいるほど、音楽の「力」はやはり半端ナイもの…、
もしも、榊原記念病院の手術室に大型ダブルラジカセが無かったとすれば、東京在住歴1年未満の外科医の心は、随分と駄々をこねていたのかもしれません。

さて今度は、もう一つの「甘じょっぱい思い出」でございます。
そうこうして時を重ねる内に、今度は、音楽本来の「別物の効能」に気づきます。
1983年の春、手術室に配属された小生を含めた若手スタッフたちは、その密室において初めて、やや人相の悪い外科医に出会い、そして真夜中のお付き合いを重ねていくのでありました。
僭越ではありますが、体力よりも気力を使うと言いますか、けっこうストレスフルな状況(特に上司の笑えないギャグに対して…)、容易にご想像いただけるのではないかと思います。
そんな環境下の若手たちにとって、必ずや早めに習得すべきものとは一体何でしょう?…、というか身に付けなければとても生き延びることができないもの、それは…、
間違いなく、お互いの「家族ともいえる信頼関係と助け合う心」であります。
でも、如何に獲得すればいいのでしょう…?。
この東京砂漠、新宿ミッドタウンに偶然にも集まりしど素人の若き手術人たち、人を騙すことも人に騙されることも知りません。打たれ弱い田舎者の集団でもございまして…、「その習得」はなかなかに困難なのでありました。
読者の皆さま、この描写だけでも、彼らの心中は如何ばかりか、果たして生きていけるのかと、「聞くも涙、語るも涙」の東京物語…、これもまた容易にご想像いただけるのではないでしょうか。

さて、そんな仲間たちの心情はそれこそそれぞれ、そして、その後のお話もそれぞれでございまして、詳細は控えさせて頂きますが、
結論から先に申しますと…、
密室での「信頼と助け合う心」の共有と拡散、そこにはやはり、ただただ流れる音楽の「力」が大きかったのでございます。
特に早朝、「手術室に入る」という行動とセットになって現れる「気の重さ」、これを見事にときほぐしてくれるのです。言葉を介さずとも、お互いの意識を向け合わずとも、あたかも、心の空白をお互いに埋め合うとでも言いますか、心が折れないように補足すると言いますか、琴線をつまびき合うとでも言いますか…、
もちろん上手くは言えません。
でも、手術室の音楽は、かなりの神経戦をこなしていく若い手術人に、「心弛び」もしくは「心の緩和的シンクロ」を醸すのです…。
そして、「信頼と助け合う心」は、あたかも、親しい友人から「こういう音楽もあるから聴いてみなよ」と教えて貰うように、「生まれるもの」というよりはむしろお互いに「貰うもの」…、
手術室の音楽は、ドタバタの密室だからこそ「必然に必須」…と痛感した次第でございます。

このような昔話、外科医の戯言とお思いかもしれませんが、あれから40年近く経った今、たまに会う当時の仲間たちが、当時の音楽について同じような想いを口走っているのを鑑みますと、
案外に、紛れも無く、そうだそれは絶対に…、「手術音楽は必須」という命題を証明する「揺るぎなき証拠」と、これまた妄想してしまうのでありました。

さてさて、若き頃の拙き体験談を長々と…、誠に失礼いたしました。
手術室に流れる音楽はこのように、
もちろん、ある程度の「時間経過と少しの辛抱」を要するものではございましたが、間違いなく…、
「個々人の心の緩和」、そして、「チーム意識のシンクロ」という効能があるようでございます。

この若き頃の「真夜中の音楽シンクロ劇場」が、小生の人生の折り目として、後々のさらなる手術三昧人生に大きな影響を与えるのは、これまた随分と後々のお話…。

続きます。

さて、そうこうする内に、若き手術人たちには十分な耐性が育ちます。即ち、少しのことではヘコタレナイ、傍から見ると生意気ともいえる「ど根性」が備わりまして、上司の笑えないギャグにも多少の忖度ができるようになるのです。
また同時に、「ギャグをかまし易くする音楽」、「瞬時に起こる嫌な気分を瞬時に消してしまう音楽」、「ただ単に流すためだけの音楽」、これら3種類の音の違いを、確信を持って認識できるようになります。さらに加えまして、音楽全般をすべからく愛せるようになります。つまり、「この曲は嫌いだから」なんて野暮な思いは無くなるのです。
例えて言えば、気を使ってかけないと「何で音楽をかけないの?」と言われる、気を使ってかけると「何で音楽をかけるの?」と言われる、そんな日常どこでもあるような「忖度して失敗する」ってことが無くなりますし、「音楽かける? それとも消す?」、そんな研ナオコさん風のコント会話が「力み無く」できるようになるのです。
そこにはもはや、「音楽のせいでコミュニケーションが取れない」なんていう、手術室の音楽を否定するような環境は存在しません。どんな条件であろうとも、皆の内なる声さえもよく聞こえるようになるのです。
もちろん、音楽を流すことに関して、手術チームとして、どれだけしつこく「音楽的人間関係」を築いてきたのか…、そしてその程度がどの基準にまで達しているのか…、肝要です。
しかし、その前提としましては、
「聞き返しても不愉快に思われない」、「聞き返されても不愉快に思わない」、そんな礼儀ともいえる人間関係がより大切であることは言うまでもありません。
そして、できますればそれに加えて、あの例の『かはゆしの感』があれば、これまた最高の「音楽的な手術環境」なのでありましょう。(当ブログ 羞恥心.com 参照)