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コラム

使命感 参の巻 上司

まあこの歳になっても未だ外科医やっていること、ある意味今更ながらの「使命感の存続」でありましょうか…。
さて、上司としての今さらながらの使命感、いま更に考えてみましょう。

それは至ってシンプルです。
「年寄り外科医が存在する意味」、そして「年寄外科医と働く意義」、この2つをはっきりさせるだけ、ただそれだけのジャストであります。
「価値探し」には、「多くの材料をばらまき、若手がブレそうな時だけに年寄りが出現して腑に落とすための手助けをする、そしてその先が知りたくなるような環境をさらにそっと置く」、それだけのオンリ~でいい。
背負投げ風のほったらかし、まあ多少放任的ですが、決していい加減ではないのです。
若手の『価値感』というものが、病気の子どもたちの希望とぴったりと重なる日が来ることを望みつつ、使命感の偶発時期を見逃さないようにするだけ…、その程度で良いのではないでしょうか。

もちろん上司は、妙な小芝居だけは決してしてはいけません。それこそ妙な若作りもいけません。
経験上、上司の期待を強いたり、チームの理想をのたまったり、偉人を引き合いに出したり、そんなものは若手の価値にとっては迷惑千万、目標を持たせたいのであれば「数字」だけで良いのです。
どうも世の中には、上司に期待されすぎて辛く思う若手がたくさんいるようです。

そして、<絶対のNG>、それは「無駄な勉強はないんだ」というお言葉と上司のドヤ顔です。
もちろん仰っしゃりたいことはわかりますが、
物議を醸す外科医が思うに…、
細めのジーパン買って若作りしようと画策中の外科医が思うに…、
全てに可能性があるのであれば、それは即ち「一向に絞り込めない、結局は何も生まれない」ということでして、
このお言葉とドヤ顔、逆になんだか若手の負担だけが大きくなる感じがして、使命感の発芽をあやふやにしてしまう気がしてしょうがないのです。(おせっかいな本棚 その三参照
「戦うまでもないことだけ早めに教えて、意味無いことで戦わないように仕向けること」も大事かと思います。

若手の価値感は、若手故にその時々に、それこそ無節操に変化します。
上司としてはとどの詰まり、「その価値感が、傍から見てその時々に、その時々の若手に似合っているかという実感が得られるかどうか」だと思います。
相変わらずの概念三昧でございますが…、例えば、
映画にはテーマ音楽が付随していて、その音を聞けば映像がありありと浮かびますよね。そしてその音はその映画のオリジナル、つまり唯一の主題歌と認識されるようになる、
このような「映像と音楽のピッタリ感」と同様に、使命が若手にビッタリ似合うようになったというフィーリング…、だと思います。いや違うか、
口説き文句がやっと正確に伝わったという幸福感のようなものか…、いやこれはもっと違う。
すみません、自分でも理解不能となりました。

前回「その弐」で申した小児心臓外科の3つの特徴に加えまして、
小児心臓外科というもの、「若手の言葉や態度に対してどれくらい心を傾けていいものか」、たまに分からなくなる職業でもあります。
そして、正月の小児心臓外科医というもの、左側臥位でベッドに転がり、「おめでとうございます」と言いながら、自分の枕を右足で持ち上げクルクル回す、そんな器用かつ妙に天然な、股関節を無駄に痛める愛おしき存在でもあるのです。

でも上司はため息だけはついちゃ駄目です。
使命において、若手にかける言葉には、「後味を引き立たせる何か」が欲しいですし、たとえ暴発爺いと呼ばれましても、「年寄だけが発することのできるアリガタイお言葉」を投げかけたいものです。使命を示唆しようとする側は、示唆される側よりも遥かに深くものを考える必要があります。
上司の使命感は当然、若手のものとは異なっておりまして、その違いを認識することは必要であります。でもそれは単に過去と現在という違いだけ、時間差だけなのです。土台は同じでメビウス輪廻の繰り返し、ですから双方いずれ、追っかけるように現在から未来へと変容していくのです。
まあそういった意味では、飛躍しすぎて理解が追いつかないような、「手術オノマトペを無駄に考える」ことも大事かと思うのです。(オノマトペ その四参照

さて、小児心臓外科医にありがちないつものお話しとなっておりますが、次回、外科医の成長について、クドくまとめてみたいと思います。
盛岡のわんこそば風ブログ、まだまだモリ込みみます。

※京王線沿線真西方位、高幡不動尊の太陽です。たなびく雲の屈折のせいか、とんでもなく大きなお姿を見せてくれました。気分良く、熱燗&モリを頂きました。