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コラム

文化 その五 若手の生態① 衝撃

はじめにお断り申し上げます。この「若手の生態」では話が何処に飛ぶか分かりません。しっかりとお付き合い下さいませ。

時代は昭和も晩期、春は曙…、昔々のことでございます。
からっ風が落ち葉を洗う甲州街道、その東方一筋入った吹き溜まり…、歌舞伎町から新宿駅を跨いだ一角に榊原というヤクザな病院がございました。
その裏小路を歩く、医局に属さない一匹狼の青年外科医が一人…、
数え齢は廿後半でありましょうか、穢のないピュアな心持ちだけが自慢だったにも拘わらず、そんな心を投げ捨てて、小児心臓外科というこれまたとんでもなくヤクザな商売を修めにきたのでございます。

当時の都内各地は心臓外科の抗争真っ只中でしたね。
着の身着のまま気の向くまま、三丁目にはおカマのママ…、当然に場所柄による磁力もございましょうが、類は友を呼ぶ、酒は友を巻きこむと申します。あたり周辺には同齢、同思、同知能、同羞恥心の心臓外科候補生が大勢群がっておりました。
もちろん帰りの汽車賃なんぞあるはずもございません。「俺は生き残ってみせる」という意味合いの言葉が各種方言にて飛び交っております。そこはまさしく新宿虎の穴劇場、いや、正確には代々木マザー牧場、羊の行進状態でありました…。

それでは読者の皆さま、心を改めまして、
波乱万丈、聞くも涙語るも涙は間違い無し…、歴史というか素性というか病歴というか、昭和の最後を生きた若手研修医たちの生態あるある、しずしずと口上申し上げることに致しましょう。
皆さまにはどうぞご勝手に、彼らの明るき未来を願い、感涙とともにご一読頂きたいと思います。そこで見聞きした純情、愛情、過剰に異常な文化は、一筋の縄では括れない、新時代を創るとても大切なものだったのでございます…。

さて、その街で出会った研修医たち、
その精神年齢たるや小生とは大きく食い違いましてね、「こいつら、一体どんな人生を送ってきたんだろうか」と心配するほどに初っぱなから圧倒されたのであります。東京御三家といわれる進学高出身者は特にそうでした。改めて世の中の広さを知った次第です。

ああそうだ、こういうことがありました。
いつも朝早く来る某研修医の顔が見えない、心配していましたら1時間ほど遅れてやって来まして、そいつが言った一言、
「ユキちゃん、今日はまいったよ、新宿駅の交差点で行列が出来ててさあ、何だろうって並んだんだ。そう30分くらいかな、いやもっとかな。そしたら銀行のタオルとテッシュを貰った。あはは…、ところで何個要る?」。→こちとら「……」。
もう一つありました。これもある研修医の出来事、
「ペヤングやきそばってマズイよね」と憤慨していたので、作り方を聞いたら、麺にお湯をいれて、そのお湯を切らずにソースを入れてラーメンのように啜ったとのこと…。→こちとら「…梵鐘の音」。
ナントモハヤ…、理解の梯子が届きません。
それでも「何事も勉強だ」と笑い飛ばそうとする奴ら、取り敢えず親近感は寂しく湧くのでありますが、「おいおい、そんな勉強はやはり駄目だろう」…、そう突っ込む勇気も失せてしまうのでございます。
奴ら…、高校・大学での生活環境が小生とは端から別様なのでしょう。確かに、妙に大人びた打ち上げ花火のような経歴は妬ましく思えるのであります。しかし、その心は十分過ぎるほどのイトケなさ、Dumbingという一言ではとても表現できないのでありました。

そんな奴ら、兎にも角にも「まずは遊びましょう」が鉄板です。悪徳セールスマンのように、「ユキちゃん、あ・そ・ぼ」と誘惑してくるのです。
しかも難儀なことに、一見真面目そうに見えます。妙なさーびす精神も持っています。時々気の利いたこともやらかします。ですからこちらもついつい、「心の襖を開けちゃおうかな」と油断してしまいそうになりますね。特に子どもっぽいキラキラの眼で訴えかけてくる場合は大変危険な兆候です。少しドキドキしてしまうのでありまして、遊び人という存在には決して隙を見せてはいけない、固く心に誓ったのでありました。
ところがそんな奴ら、天才と思うほどにとんでもなく頭が良いのです…。それは医学的な知識だけではありません。特に文学に関してはとても豊富でしたね。「遊びながら勉強する、遊びの中にも思考二つ」、そんな特殊人であります。
またそんな奴ら、「どちらが善くてどちらが悪いか」という判断はさて置き、殆どどうでもいいと思われる議論を真っ先にする傾向がありましたね。しかし驚くべきことに、その殆どが実は最も重要なのであります。そして実にさらっと直線的に行動を起こします。これには本当に恐れ入りました。多分小生とは人生の出発点が異なるのでありましょう。

そうです。あの時代の小生はまさしく…、東京の文化的衝撃の洗礼を受けたのであります。
真似しなきゃいけないという思いと、真似しちゃいけないという思いが、羨ましさと悔しさを持ってせめぎ合い、そして小生の両肩を押さえます。陸の孤島、宮崎では神童と呼ばれながら不可侵条約の環境で育った小生、そういう輩が本気でやる気を出せばとてもかなわない、そう思ったことも事実でありました。

でも大丈夫、安心して下さい。時がその差を解決してくれます。相手もたかが20代のタメの若造、「履いている」のは同単色の単なる若さだけなのであります。
特に小生には、朱に交わればなんとやら、宮崎県人の「どげんもこげんも」の勇猛かつ緻密な精神がありましたからね…、直ぐに「ここは自分の第二のふるさとだ」なんて、宮崎を裏切ることを平気で思えるようになりましたし、好きな言葉を聞かれたら「人生色々」と、首をかしげながら自信を持って答えることができるようになりました。
価値観は違っても、手術の修行において今後見つけるべき価値感の数と種類に変わりはないのです。彼らとのそんな付き合いのお蔭さまで、「競争とは、自分の懐いに対してやるもの」、そのような一種奇天烈な悟りも開けたのでございます。(当ブログ 「使命感」参照)

歌舞伎町からの気の流れでしょうか、それとも東京地主神の思し召しか…、穢のないピュアな小生はジワジワと穢れを纏い、そしてジワジワと心の和らぎを感じていくのでありました。

続きます。

「さっき奴は、このねぷた村にも顔出すたよ。胸肩神社で白蛇ぐんと戯れで、虹のマートで木花佐久夜嬢にご挨拶すて、弘前ラーメン喰って、こごまであさいでぎだらすい。それにすても、太鼓と三味線の撥さばぎは中々なモンだ、心から聴ぎ惚れだ、んだんだ」