大人の嗜み Act 3
現代において…、若手外科医が“一つ”の段階を超えるのに、どの程度の実力と見聞が必要なのでしょう?
もちろん今の時代、情報量や教育制度という面では昔と比べようもないのであります。しかし、手術というものは結局のところ、「技術を如何に身につけるかは本人次第」、そして、「本人の緩和心を鍛えるのは他人次第」でございまして…、
手術は確かに昔も今も、“職人的に技と心を身に付ける”という極めて客観的なものなのであります。
ですから、そう考えますと、どの時代の研修医も段階クリアの条件は同じでありましょうね。特別に誰かが不利益になるということはないのです。そうですね、もし手術修行がそういうものであれば、言葉が少し飛びますが、手術人には、その養成のための“徒弟制度”があって然るべき、そうとも思ってしまいます。
もちろんこのこと、あまり大きな声にならないようにしております。
とは言え、歴史的遺物ともいえる徒弟制度、それは極めて希少です。もし眼の前に用意されているのであれば、積極的に乗っかってみてもいいのではないか…、迷いなくそう思ってしまいます。修行の根っこは、どう生きようともそんなに変わらないのです。
でもまあ、こういった教育や育成というお話になりますと、考えは百人百様でしょうね。まるでお江戸の時代のような自由を過ごしてきた小生なんぞは、当たり前に“うるせぇ爺い”という仕分けになるのでしょう…、間違いなくそう思います。
さて、それはともかくとして、あくまでも小生の経験から“段階突破“について考えてみましょう。
技術の面においては、少なくともではありますが、比較的短期に“つ抜け”以上の数で同じ手術を経験する…、そうなれば大体のところ、父兄同伴は卒業、青二才という名前は返上できそうです。もちろんその時に、自分の手の動きの変化を感じければあまり意味は無いのでありますが…。
一方、緩和の心に関しましては、未だにその判断は難しい。
「手術だけに存在する“理”はあれど、個々の価値観や思想が変化するのはこれ当然のこと、ここでお互いが仲違いしてもどうにもならないとは判りつつも…等々云々」、
なんともはや、そんなことの繰り返しでございまして、皆の懐いを咀嚼できないことも屡々…、若手外科医にはかなり厄介な感情が生まれることがあるのです。ですから、今できることをやるしかない…、自分をそう納得させることでしか、緩和の段階は踏み進めないのであります。
ああそう言えば、そんな時でしたね、当ブログで申した自己防衛手段としての「何にもしない時間」に気づきましたのは(心臓外科医の徘徊道 その四 ギフト 参照)…。若手は残念ながら、心の溜め息を聞くことでしか成長しないのかもしれません。
結局のところ、外科医の経験則とは、そして、外科医にとっての丁寧さとは何でしょう?それは総じて、手術だけでなく、廻りに存在した“表情”が思い浮かぶということと考えます。であれば、今は気づかずとも、手術は既に面白くもあり、既に自分のものとなっているのでありましょうね。これこそが心の段階を踏んだ証し…、自分より速く、若手を“手術的な大人”へと前進させるのです。
そして、これまた、あまり大きな声にならないように言葉を飛ばしますが、
緩和の段階を超えることは、教育や指導と言うよりはむしろ、“心の躾”と言っていいのではないかとも思うのであります。ですから、抑えておくべき躾たるものが、もし眼の前に用意されているのであれば、これまた乗っかっても良いのかと…。
そうですね、思うにこれこそが、医療本来の意味でのガバナンス、コンプライアンス、リスクマネジメントの“始まり”なのでありましょう。
段階というものは、段階的に続けることができて初めて、“それは才能だった”と言われるようになります。繰り返すことで、自分に合う、いや自分しかできない手術を求めていく…、そうですね、これまた手術室に“あるある”『大人の嗜み』なのです。
続きます。