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コラム

大人の嗜み Act 2

修行というものは、小児心臓外科学もまた然り、親方(上司)の思し召しが無ければ、次の上がり段には上れません。そこに架かる段梯子の段それぞれには、試練もしくは偶然という、聞くも涙、語るも涙の物語が踏み固められているのでございます。
そんなかんだで外科医生活も長くなりますと、そんな時代がとても懐かしく、都合の良い言い訳をふいと添えてしまいます。

かれこれ30数年も前のことでありました。そうそれは、研修医生活も5年目を迎える頃合い…、ある上司が小生にこう呟いたのであります。
「お前も、手技的にはまあまあそこそこになった。もうそろそろ、今のお前の手術の段階で、それに見合った、今のお前にしかできないことを考えて過ごしなさい」
“一段昇るべく許可”とも聞こえるこのお言葉、嬉しく思いましたね。
がしかし、この時の小生は結局…、「誰かのために」とは叫びつつも、「手術には、その技術と質の向上だけが何よりも肝要」と、自分だけを正当化する大きな勘違いをやらかしたのでありました。

反省とともに振り返れば、あの上司のお言葉は…、
それぞれの段階の踏破には、技術を追い求めるだけの愉しさだけでなく、その愉しさの質をよくよく考慮して、そこに付いてまわる厳しさや悲しさに思いを巡らす、そして、手技はもちろん、周りにいる人間の“懐い”もまた、自分のキャリアとして積み重ねていく…、
つまり、執刀医として、皆への“緩和(思いやり)の心”を探ること無しに次の段階へ踏み進むことはできない…、そういうことだったのでありましょう。
そうですね、今思えばあの当時、少し上の段階にいた先輩や仲間たちは、最初の段階にいた小生の心を慮って、その段階に相応しい、それなりの芝居を演じてくれたのでありました。しかしながら、若気の至りとはいえ、その意味も、またその恩さえをも、感じていなかったのであります…。

手術修行には、それぞれの段階において、その時でしか遭遇できない幸運と試練があります。加えて、“ある世代”にしかできない緩和もあります。そういった段階ごとに、技術も緩和も踏みしめて行くからこそ、それぞれの段階の意義が明らかになりますし、いずれ、“手術人として手術人を育てる”大切な役割を担うことが可能となるのです。
それはある意味、外科医としての『大人の嗜み』を覚えるということ…、その継続が手術人を育てる伝統となるのでありましょう。

続きます。