繋がる 繋げる その五 無駄
小児心臓外科医の風上にもおけないと言われつつ…、定年から既に2年が経とうとしております。
さて、昔々のことではございますが…、
「無駄そうだけど決して無駄ではない」、それが「必須の無駄」、そんなお話を偉そうにさせて頂いたことがありました(当ブログ おせっかいな本棚 その三 参照)。
がしかし、このことは決して、「全てに無駄なことは無い」ということではないのです。
外科医の修行におきましても、「心底、無駄に思えてしょうがないこと」、それはやはり「あるっちゃァある」のでございます(もちろん、あまり大きな声では喋れません…)。
最近も変わりなく、心が揺れ揺れの千変万化状態でございます。
『あの時無駄だったことを、「やはり無駄だったか?」と、ひたすら無駄に思ったりなんかして、そして、そんな無駄に考える時間の中に、本当は無駄とは思っていない自分が無駄にいるのでありまして、このように、無駄の考え方そのものが、無駄に変化していっているのであります。』
でもまあ確かに、「無駄に思えてしょうがない」心持ちになるのは、ようやく大人になったからなのでしょうか、それとも、世の儚さを知るようになったからでしょうか、もちろん、単なる老化とも言える現象でもございましょうが…。
思えば、あの学生時代は、無駄という文字すら存在しない無駄な世の中を、何も無駄とは思わずに「只々青春々々」していただけのことでありました。
一方、ぺえぺえ新人外科医の時代には、「外科医の世界が聖人君子の集まりでないってことは誰だって知ってる、まあそれくらいでなければこの業界やっていけねえよな」、そんな勘違いともいえる無駄なアドバイスを決して無駄とは思わずに…、そしてまた、「自分でやれるって判断して、もし失敗すれば、それは本当の恥なんだゼ」、そんなセリフを言っても無駄だと分かっている先輩の無駄話を無駄とも思わずに…、それらの意味を、ただひたすら無駄に咀嚼しまくっていただけなのでありました。
そんな、無駄とすらも思わない時代には…、もちろん、ネットや携帯はありません。
ああそうでしたね、そう言えばあの当時は確かに…、
真夜中の図書室で文献を探すのにも、まずは当直婦長にお断りして、本棚の鍵を開けて貰って、ICUの看護婦の皆さんに気遣いをして、廊下を歩く足音にも気を遣いながら、そして自販機で缶コーヒーを買って、さらに何度かのetc.を繰り返したその先にようやっと、目的の文献に辿り着く…、そんな無駄な儀式が幾つか必要…、そんな時代でありました。
でもしかしながら、辿り着くまでの道筋には、その時々に大切な会話と文章、そして、将来に役立つ会話と文章がございまして、今考えれば明らかに無駄っぽいことではありましたが、それが当たり前だったからこそ、当たり前に無駄とも思っていなかったと思うのであります。
ところが最近では、申したように、何かにつけ「無駄に思えてしょうがない…」、富にそう感じるようになっているのです。また加えまして、今よりも昔々の時代の方が、「術の質」に優れている…、そして「緩和の質」もまた今よりはずっとマシ、そんな風にも確信的に思えてしまうのであります。
どうもこれは、よくよく考えてみますと…、
「無駄が無いことが、必ずしも期待した効果を産んでいない」
「無駄が無いことで、かえって、繋がると繋がりがよく見えなくなってしまった」、そう勘づいたことに原因があるのかもしれません…。
結果、「無駄が無いことが無駄なんだ」と考えるようになったと…、どうもそんな風に思えてしょうがないのです。
言わずもがな、年寄りの戯言ではあります。しかし、何だかいつもの外科医のオチャラケ妄想とは明らかに異なりまして、無駄の質というもの、いつのまにか相当に変化しているなと、多少深刻な表情をしながら盃を傾けたのでありました。
傍から見たら、相当に危なく目が据わっていたことでしょう。
改めて、某小児心臓外科医の妄想を申し上げます。
手術におきましては、「術」にしても「緩和」にしても、「すぐさま理解して、自分のものにして、完璧に役をこなす」、このことが全てであると考えております。
ただし、これは一朝一夕には成り立たないもの、そしてもちろん、知識の集積だけでは成り立たないもの…、外科医らしく言えば、いつのまにか段々と「いい色に染まりながら」映えていく、そんな「あやふや」なものであります。
経験上その達成はやはり、横横の繋がりがあるからこそ可能となるのでございましょうし、縦縦にも繋げていく、そんな「無駄な時の流れ」がどうしても必要なのでしょう。
でもそうですね。確かに今は、流行りの曲をまとめてダウンロードするように多くの知識を集めることができる時代です。でも、例えそのような便利な手立てがあるからといって、以前よりもそれこそ便利に、眼の前の視界が突然に開けたり、またその分、見識が大幅に増加するということは、恐らく絶対にあり得ません。
もちろん、便利なものすべてが無駄だとは決して申しません。
でもそのように、「便利なことを無駄と感じる」ようになった小生は、顰蹙ながらも、「何だか面白くなってきた…」と、次回の講演で中高生に投げかける命題を、これまたワクワクしながら、そしてニヤニヤ愉しみながら、手帳に書き付けているのでありました。傍から見たら多分、多少の気色悪さに思わず一歩引いたことでありましょう。(紙の本か電子書籍かー言語脳科学が明らかにする「紙の本」が脳に与える影響(酒井邦嘉) https://www.chichi.co.jp/web/20220721_sakai_kuniyoshi/)
小児循環器医療学は、とにかくもって、それに関わる「全ての人間を懐って慮るもの」、そして「親不孝、妻不孝、子ども不孝が当たり前の世界」、そんな商売だからこそ私ども小児心臓外科医は、「術」の進化とともに、「緩和」をも進化させる義務を背負って、精一杯、縦に繋げていかなければなりません。
果たしてそこに「無駄は要るのか要らないのか…」、
さてさて、何やかんや理屈を申しましたが、結局は、ブラックと言われ続けてきたバカな外科医の成れの果て…、
がしかしながら、「本当の手術を留め置く工夫」が無くなれれば、それは元も子も無いことですから、そこだけは何とか「繋げんといかん」と思うのであります。
続きます。