Doctor Blog

コラム

手術と音楽 第十章 終章か?

『あの当時は本当につまらなかった学校の教科書が、大人になると何故か楽しく読めるようになります。教科書はいつまで経っても教科書…、歌の下手な鶯が上手くなるまで、最後の最後まで付き合ってくれるのです。このブログもそんな風になればと…、もちろん過分な望みです。』

読者の皆さま、おはようございます。
「氣にするから気になる、氣にしなければ通り過ぎていくだけなのにその都度気にする」、そんな方々が増えてきた気もする今日此の頃でございますが、お変わりございませんでしょうか。

手術室の音楽は、比較するものでも、比較されるものでもありません。気にするものでも、気にされるものでもないのです。……、座禅に没する永平寺の僧侶の方々を思い出してしまいます。
もちろん、最初は何かしらの目的を持って音楽を「かける」のでございますが、
いずれその内に、「そんなことはどうでもよくなる音楽」へと成長していきまして…、
その「どうでもよくなった音楽」をかける手術室が、これまた「どうとでもOKの音楽」を育て…、
そしてついでに「手術人」をも育てていくのであります。
その中で積極的に良し(善し)とすべきことは、
もしそこに、何かしらの音楽の効果を想像できたのであれば、科学的に証明できずとも、それはそれで良し…、
そして、「どうとでもOKの音楽」が、手術室に巣食う「あるある問題」を緩和する雰囲気が少しでもあるのであれば、これもまたこれで善し、なのでございます。(深く考えず、ただ座するのみ)
皆さま…出足からこんな風で申し訳ありません。本日早朝、目覚めに聴いた、Chicagoの「25 or 6 to 4」がとても懐かしかったものですから…、お騒がせいたしました。

演奏家は、楽器を手にして、仲間とステージで演奏して、お客様と楽しむという経験を一度でもしてしまいますと、それはもう病みつき…、音楽というものはただひたすらに皆で愉しいのです。
手術もそれと同じ…、仲間と一緒に、「助けよう」という強い意識で結ばれて、お互いに緩和されながらも一つの手術を成し遂げる…、手術というものもまた、皆で愉しいのです。
手術室の音楽、それは100年前からの「おもてなし」、やや古めに発音すれば、「O・Mo・Te・Na・Shi」…、
若者を迎える立場の小生…、人生の折り目となるような音楽さえ準備しておけば、新入職の若手にも不思議な共時的エネルギーを与えることができるのではないかと信じております。
そうそれはまさに『必須の無駄』でございます。
つまりもっと楽に「手術が学べる」ということにも繋がろうかと…、ですから今後も、手術室で流す音楽には、最強の布陣を整えておこうと思っております。(当ブログ お節介な本棚 その三参照)

あのミッドナイト新宿の手術室…、
時それぞれの手術にはそれぞれの個性、また、時それぞれに働く手術人にもそれぞれの個性がありました。
そして…、あの大型ダブルラジカセ…、そこから流れる、時それぞれの音楽にもまた、それぞれの個性があったのです。
今思い起こせば…、
あの当時の音楽には、「こうかければもっと良かったかな」という、少し寂しい想い残しがあります。
そして一方…、
当時の小生には、「こうありたかった」という、後悔らしき想いもまた、切なき記憶の中に残っているのです。
どうやら、あの手術室の音楽たちは、手を下ろした後の外科医の人生にも、それなりの影響を与えているようでございます。

音楽を何か大切なものとして定義すること…、今の小生にはできません。
手術室の「あるある」と、その「あるあるを見つめてきた音楽」は、その時々の言葉を違うニュアンスで発する人間とはもちろん異なりまして、これからも多分にそのままに、若き手術人を見守りながら、永劫、手術室のそこら辺にコロガリ続けてくれることでしょう。
そのように、人との出会いの始まりにも、そして、その出会いの終わりにも付き
添ってくれる…、人間の努力だけではどうにも自由にならないものを何とかしてくれるのが、『手術室の音楽』なのかもしれません。

さて次回は、兎にも角にもホンマモンの終章、「第十章 外伝」であります。

続きます。

手術が終わって、後片付け中にラジカセから流れる音楽…、
その曲には二度と思い出したくない、昔のトラウマ映像がへばり付いているのでありました。
でもこうやって、あたかも戦友のような仲間とともに、あたかも「祭りのあと」のような手術室におりますと、いやがおうにも耳に入るその音楽が、ユルリと自分を緩和していることに気付くのです。悩んでいた自分って何だったんだろうって。
手術室の音楽というもの、それを流す人の権利も、流さない人の権利も、もちろん等しく尊重しなければなりません。しかしながら、そこでたまたま聴いて、そこでまたまた琴線に触れてしまう…、その時に起こった感情がたとえどのようなものであろうとも、また、今後それがどのような変化をもたらそうとも、真夜中の手術室のラジカセは変わらずにいつも通り、ただただ…音楽を流してくれるのです。
それはもしかしたら、何かをリセットさせようとする手術室からのご縁であり…、そして、赤ん坊に寄り添うというお役目に対するご褒美でもありましょうか。