Doctor Blog

コラム

手術と音楽 外伝

『それこそお約束的に、「者」より「物」に恋するお年頃となってまいりました。無趣味と言われた外科医はどうやら、ゆっくりとですが進化しているようでございます。どうもすみません。こういう意味不明な話も「たまに入れたらどうでっしゃろか」と、うちの若いモンが言うものですから…。』

読者の皆さま、おはようございます。
今回のブログ、「少しだけでいいから、文中から形容詞を抜いたらどう」、そんなツッコミをいただく今日此の頃でございますが、「お変わりなく、お元気でしょうか?」ようやくここまで参りました。

今までというもの…、
如何に手術室音楽の有用性を力説したところで、返ってくるのは「…そうなんですね」、その程度の反応でありまして、某小児心臓外科医のか弱き心は何となく、「………」でございました。
しかしその悲しき思いはあに図らんや…、
「今まで手術室の音楽を意識してこなかったアナタ、何故ゆえにそんなに寄り添うようになったんです?何だかとっても“ふぁにー”で素敵…」てな感じに変わっていったのでございました。

さて、この「手術と音楽」、佳境のド真ん中にて暴走しておりますが、
手術関係者および関係者らしき方々から、またまた仰山のご連絡(with異議orイチャモンand密告)を頂きました。その殆どがそれぞれの上司に関するご意見でございますが、それでも幾分かは、ほんのりした温かみがブレンドされているなと感じております。少しくご紹介しておきましょう。

最近のうちの上司…、
「妙な若作りを始めた、USEN番組表を熟読している、手を挙げる練習をしている、欧米風の動作が多くなった、メルカリでラジカセを検索している、医療系ドラマの俳優に似た喋り方をする、We will Rock youと呟きながら手洗いをする、縦ノリで歩く、餅つきのリズムがちょっとだけ16っぽく変わった、小倉太鼓をKOKURAドゥラムと発音する、君とチュウが心の耳に響くようだ、昭和色が半端ない、でも気安くツッこめそう、この自信はどこからくるのだろう?
未だに1/2小節ズレルが何とか8小節の感覚を掴めたみたい、ギャグを入れるタイミングを体得したようだ、裏打ちを通り過ぎて正確な表打ちとなって皆とシンクロしている、手術終了時の親指を立てる仕草が様になってきた(でも片目を瞑るのはやめて欲しい)、阿吽の呼吸とラマーズ法の違いが分かる、ツーカーをヒーハーと発音しなくなった、手術の時間軸がブレないしキレることもない、でも未だ有り難さ半分ウザさ半分、Bohemian Rhapsodyを3回、Elvisは4回続けて観たらしい、…etc.」

ご連絡いただいた皆さま、すべからくがご批判で無かったこと、心より安堵いたしました。
ただ今、3畳間にて当ブロブの最終作文をしております。
「これでようやくオシマイか…」、そのような思いを胸に小さなガッツポーズをヤラかす皆さまのお姿が何故か不意に心に浮かんで消えたところです。もちろんお心の内はいざ知らずですが、でもそんなお姿を想像するだけで、何だかこちらも嬉しくなってしまいます。
ところで、皆さまのところの上司は、はたしてどんな音楽を流すようになったのでしょう?老婆心ながらお察し申し上げたいところではございますが、まあこれもまた野暮テンというもの…、ここは一つ、皆さまの手術人としてのご矜持と懐の広さにお任せすることにいたしやしょう。

さて、読者の皆さま、またまた最後までお付き合い下さいまして誠に有難うございました。
ブログ執筆中だけは、Charles Robert “Charlie” Wattsさん、もしくは高橋ユキヒロさんのリズムにて、心をキッチリカッチリと、整然・端正に整えたいと思っているのですが、ついつい今回は…、
Was(not Was)の「Walk The Dinosaur」やCameoの「Shake your pants」をかけながらの妄想一人夢芝居、残念ながらいつもの長広舌文と相成ってしまいました。
もちろんそれは、魂とDNAに刷り込まれた「太古からの祭りに関する知性」がなせる技なのでございましょうが、
しかしながら如何せん…、恐竜未満の文才がやらかすことでございます。何かしらの抗えない問題がいつも通りに突然に出てくるのでありしょう。余計に始末が悪くなってしまうのであります。
どうやら小児心臓外科医には、恐竜の足跡が残る道だけを好んで歩き、まずは「言葉と遊ぶ」、そして「音を楽しむ」という妙な習性が遺残しているようです。
今後はそうですね、一つ一つの文章に派手な尾ひれを付けまくって、過剰な脳内物質分泌と海馬刺激を促しまくる…、そんなあざといテクニックを駆使してやろうかと密かに考えているところでございます。

さてさて、そろそろ、
次世代外科医が手術室で流す音楽にチャチャを入れること、それを愉しみに…、
そして、触覚→嗅覚→聴覚…と巡った「It`s automaticの飽きやすき魂」…、お次に何の感覚が出張ってくるのでございましょうか、それもまた愉しみに…、
それでは皆さま、またお会いしましょう。
(お断り…次回ブログですが、未だ構想にも至っておりません。しかし、前回の陸奥旅ブログが万人に近く好評だったようですので、いずれその内に…、『外科医・高橋幸宏 お神酒旅紀行シリーズ』と題しまして、続き物にしようかと考えているところでございます。その土地それぞれに残る謎の伝説の解明、そして新たに発生する事件や難題を鮮やかに解決していきたいと考えてはおりますが…)

「学問せねば…」、その思いは自分で何かを見つけようとする純な欲望であります。
医学という学問は、初めは誰もが悲しい経験から始まり、それを「何とかしたい」、「何としてでも調べ尽くしたい」、そんなどうにもこうにもならない欲求を持って始まります。単に知識を得るだけではないのです。それは、自分で動き、自分で感じて、自分なりの方法と哲学を育てていくことであります。そして、後に続く者は、その結果に感動するのではありません。その過程があるからこそ感動するのです。そのような流れを辿って、それらの経験は初めて一つの新たな学問となっていきます。この面倒くさくも素晴らしき学問の道は、医療者の誰もが通る宿命でもありまして、逆らうことは決して許されないのです。
加えて、特に医学の場合…、患者そして仲間という相手が存在します。ですから、その周辺をよく観てさえすれば、学問のための王道が比較的容易に見つかるはずであります。しかし、それはあくまでも医学の神さまからのギフトでございますから…、見たくなくても見ざるを得ないというものでもございまして、実を言いますと、そのことこそが結構厳しい、そして難しい学問と言われる所以でもあるのです。

それでは、学問をする環境を考えてみましょう。
まず上司がやるべきこと、それはただただ一切合切に、学問のための七つ道具を若者の傍に置いておくだけでいい…、それらは10年単位で将来を考える「必須の無駄」とも言えます(例えば、古い医学書や病院としての歴史的な遺物、独り黙考できる空間、そして何と言っても時間)。もちろんそれらは、上司の匂いと痕跡を残さずに次世代へと大切に保存(Leave no trace)しなければなりません。もちろんけっこうなお世話とお金、そしてスペースがいるのでありますが、少なくとも、上司の訝しいポリシーだけは一切不要ということ、むしろ迷惑です。

さて、面々と続く学問の歴史の中では、一般常識からすれば極めて稀なことなのですが、この「必須の無駄」に対して、「必要ない、無駄である、無益である、非生産的、無価値、無意味である、etc.」、また「最近の若者はどうせ本を読まない…勉強しない…、ナンタラカンタラ」、そんなことを言う輩が出てまいります。でもよくよく考えてみて下さい。若者というものはもともと怠け者なのです。初めは七つ道具の何たるかなんて分かるはずもありません。もちろん、勉強しろと言っても勉強なんざ致しませんのです。
でも、いずれ変わります。例えば、図書室に涼みにいく、昼寝に行く、メール打ちにいく、昼飯食いに行く、ただそれだけであっても、真っ当な環境にいて真っ当なキッカケと真っ当な上司さえいれば、その図書室はその内に、もと怠け者だった若者が通う学問の場へと変容します。学問とは、そんな若者の進化を、ただひたすら信じて待つものなのです。「お前も昔はそうだったじゃないか」、そんな図書室の声が聞こえてきそうです。
学問の場での上司は、天才を作る…、まあそこまでいかなくても、少なくとも第一人者と呼ばれる、もしくは尊敬に値する医療者になる、そんな若手の可能性を潰す愚行を避けるだけです。それはそんなに難しいことではありません。例えて言えば、昔の人工心肺を、昔人工心肺であった稀有な歴史遺産とみるか、それとも昔人工心肺であった単なるガラクタとみるか、その程度の判断が必要なだけです。上司は、真っ当な環境を保持し、そして黙っとくだけ、「こうやったら若者が早めに学問できるだろう」という知恵を絞らねばなりません。「ネットへ若手を放り投げ~」、そんな無粋なことは是非やめましょう。
それにしても、この齢になっても「まさかや」、こんなことがあるのですね。学問という名の育ちの環境の差を、あたかもSNSでの発言が間違ってトップニュースになったかのようにビックリコックリ、まざまざと、そして慎重に見ることができました。これは滅多なことでは経験できません。珍しくも、そして悲しくも、飽きれ果てるほどまでに、実に面白いものでありました。