夏が来れば思い出す その七
『新すい「けやぐ達」が真顔で宣う、正論らしき縄文流の帰納的理論(言い訳)とは?
それは、「あのなぁ、野郎がたった一人でわざわざ津軽まで神社参拝に来るかァ⤴?あんびりばぶる~」、
何のことはありません、コテコテ親父のいささか不満らしき発想でございまして…、弘前の辞書には、「巡礼一人旅」という言葉は無いのです。
そういえば、このお店を電話予約した際、「本当にお一人ナンですね」、「食事は絶対に一人分でイイんですね」、「当店、シェアはお断りナンです~」と、妙な力を込めて何度も念を押し込めまくる大将…、
「青森の寿司屋はコナンドイル風に妙だ」と感心したその当時の小生、「ただただ若かった」と今では心から反省しております。
そしてさらに、百沢の宿のロビーまで迎えに来てくれた、「巡礼一人旅」という言葉をもちろん知らない津軽唯一の知人は、「本当に一人だったンですね」と、この世の終焉の如きガッカリ感満載の一言…、加えて、「やはり一人でした」という、内密かつ本当によけいな大将への電話交信…。
「真摯な巡礼をなんと心得る」、天孫降臨ロマンチシズムの地で育った小生にとりましては心の底から「せばだばまいねびょん」、理解に相当な技術と時間を要する一種独特な縄文哲学でございまして…、
類にもれず天真爛漫ランランランのヤツらだったのでありました。』
さて読者の皆さま、いつものお約束ではありますが、「縄文系しつこいヤツらVS天孫降臨系小生」の饒舌御神酒バトル、津軽弁と宮崎弁を混じえながら、おごそかに始まったのでございます。
もちろんそこには、「雪國」のBGMなんぞ必要ありません。
でも、久々に目撃しましたね。そして色々と思い出してしまったのです。
無言のウインクと、計算ずくの咳払いだけで会話する、津軽の男たちの「心のちらリズム」…、
「加トちゃんケンちゃん」真っ青の、カウンター越しの見事なまでの間の取り会い(愛)…、
いつ突っ込もうかという、「ヒシヒシ」という音が直に聞こえる身構え感…、
集合という掛け声に、無意識に腕立て伏せを始めてしまう体育会的「部活感」…、
「楽しむことだけを美徳とする」、空気を読まない倫理観…、
他人への厳しくも優しき、「お約束ですから」という督促的無理強い感…、etc.…。
僭越ながら搔い摘みますと、
宿題の無い夏休みに自ら進んで自由研究に励むという、エエ齢こいた大人たちの責任感…、
傍から見たその訝しげな眼差しはまさに、アンパンと牛乳パックを常食とするかなり怪しい老刑事でございました。
この津軽での「もてなしの流儀」というものは、
幸せな夢らしき妄想だけが「一義」という…、思うほど融通の利かない一夜限りの青春時代劇に過ぎないのかもしれません。そうそれはズバリ、そんなものでございます。
…がしかしながらヤツらの…、
何の疑い&屈託の欠片も無い、「それが当たり前」という名の縄文風もてなし、
そして、相手の心を鷲掴みにする、迷惑無理強いの「愛の鑑識眼」、
さらには、今では古参のみが為せるという、執念ともいうべき「Synchronicity」(当ブログ「記憶とシンクロ」参照)、
これらはあたかも、「説明不可な幻覚」が後ろからそっと忍び寄るようなものでして、
全くもって不覚ながらこの小生…、
「ゲームの流れに乗れないのはお前が間違っているんだぜ」という幻聴とともに、何かに取り憑かれたように、「感嘆(簡単)シンクロ」してしまったのでありました。
確かにヤツらは、神々の御わす大海の広さというものを十分には知りません。でもその海の、「永遠の青さと深さだけは、津軽の空の青さ同様に熟知している」、
そんな魔性の誘いともいえる「晴れ時々快晴」のフレーズがナントモハヤ、知らず知らずに湧き上がってまいりまして、そしていつの間にか、3回ほど反芻させられていたのでありました。その時に浮かんだ「最近ではココ一番の気分」という摩訶不思議な感覚は、今でも全くの謎でございます。
「御神酒を傾けつつ詩作にふける酔白堂…」、最初ヤツらの眼の前で、羊の数を数えるように目をつぶっていた小生は、さぞかし間抜けに映ったことでしょう。
そんな右隣の少し派手目のオジさんが、この寿司屋にほぼ毎日出入りしている超有名デザイナーと知るのは、それからまた随分と後々のお話し…、
でもまあハタ迷惑とは思いつつも、そんなあけっぴろげかつ無駄な心の中には、小生が今まで経験したことがない「新たな神々の教え」を感じたのでありました。それはもしかしたら、いにしえの縄文族同士の「交流の奥義」と呼べるものだったかもしれません。
今思えば、岩木山周辺での沢山のご縁もまた、某山登拝での遭難時に導いてくれた神のように…、
迷子の子羊をすべからく「お茶目にお出迎え」する、神々の思し召しでありましょうし、お役目でもございましょうや。
「えッ…え~⤴…、ちょっと待てよ、そうすると、ヤツらも神なのか?」、「いやいや、まいねまいね、こった考えはまいね。」などと思いつつ…、
さてさて、そんな妄想が生まれた頃合いに目出度くお開きと相なったのでありました。
そしてこれもまた縄文独特の風習とのことでございますが、2日後の帰京前にもう一度「お別れの儀」を開催するという特別ギフトを頂戴しまして、自称江戸っ子の小生にとりましては長ッ尻ながら、「おやすみなさい」したのでございます。
津軽には、「宵越しの思い出作り」や「はた迷惑」、そして「遠慮」という言葉も存在してはいけないのです。
ヤツらの「当たり前だの枉駕来臨」は、「信頼に答える」というような軽いお言葉を軽く飛び越えたものでございまして…、
津軽の津軽たる所以が、今まさに顕になろうとしておりました。
さてさて読者の皆さま、この「ごあいさつ放浪記(妄想旅手帳)」、万人に愛される旅ブログらしく、段々と佳境に入ってまいりました。
しかしながら突然に申し訳ありません。次回からは、全く様相を変調させたお噺を暫くの間、続けさせて頂きます。
旅番組の途中でCMが入るほど興醒めなことはありません。もちろんそのこと、重々承知しておりますが、ちょっと思うところがありまして、
そのお噺の完結後に晴れまして、そして怒涛の勢いをもって、津軽旅ブログの最終稿へと突入する所存でございます。
もしかしたらそのオンエアーは9月中~下旬頃になるかもしれません。その暁には皆さまを、感涙の「縄文の世界」へと導かせて頂こうかと、今だけですがお約束しておきたいと思います。
ですからもう少しだけ、チャンネルは替えずにお付き合い下さいませ。
続きます。
さて、ヤツらの、精一杯に疑おうとする演技力皆無のお芝居を考えてみますと、面倒くさいながらも、「何でも察しようとする感」、そしてお節介ながらも「案じようとする感」であります。それは単なる好奇心の塊でもあるのですが、「オイオイ、くたびれていないかい?寿司でも摘まんでいきなよ」という、相手を思いやる極めて純粋な「もてなす感」でもあろうかと思うのです。もちろん疑うべき多少の怪しさはあります。でもそれらは何となく、何となくではありますが、もしかしたら、我々医療従事者に共通して存在すべき「愛の鑑識眼」、その意味するところは、愛を持って相手の心を優しく掴むこと、何故かそんな妄想にとらわれてしまうのでありました。もちろん、宴会中の写真を後で見ると、そんな思いは吹き飛んでしまうのですが…。