羞恥心.com Chapter5
さてさて、手術室のお話です。
若手にしろ上司にしろ、「羞恥心の有る人、無い人、襲われる人、隠しきれない人、内に秘める人…」、実に多彩でありまして、「あ~メンドくさ」と思うこと、多々あるのでございます。
これらの人たちのお互いに生じる「他者への羞恥心」は、「いと恥ずかし」も「かはゆし」も「…etc.」も、それこそ様々、それぞれなのです。
でもでも、それらの『違い』というものはハテサテ、何処から、いつ生まれてくるのでしょうか?
「集恥本人」があえて思うに、
少なくともそれは決して、前世の因縁、つまり各々に自生する感性や「価値観」の差ではないと思います。
多分に恐らく…、
(途中に失礼いたします。ここから先は、特に価値観と価値感の区別など、本ブログ「使命感」をご参照してお読みください。筆者も段々とこんがらがってきております)
多分に恐らく…、日頃の手術で遭遇する『価値感』の差によるものかもしれません。
つまり、目の前を通過する「何とかせねば」と思う辛い出来事を、どれだけ多く、そしてどれだけ上手く腑に落とせたかどうか、要は、これらの解釈の差というものが、「他者への羞恥心」の様々な違いになるのではないかと考えます。(即ち、外科人としての育ち方の差といいますか、修行環境の差といいますか)
ですから、それぞれの手術スタッフに生じる他者への羞恥心の違いというものは、「逆に巡り巡ってイコール価値感の違い」ということにもなろうかと。
従いまして、手術室の修行において、我々ロートル外科医が留意すべきことは以下の3つ、
「価値感の辛さから生じる自己への羞恥心」のケア、つまり、落ち込むとかモチベーションの消失を予防すること、まず必要です。
そして、次に大事なこと、「他者の言動から生じる他者への羞恥心の修正」、つまり、「コイツ恥ず」という思いはそれこそ恥と思うべきであり、手術チームには根っからの邪魔モノであると周知すること、
そして何よりも、我々ロートルの心の中に、若手の羞恥心を「かはゆし」と思い切れる、本気の器の広さがあるかどうかということ、
これらの上司の「羞恥的度量」は、結果、手術チームとしての新たな使命感を生み出すだけでなく、今まで何度も申してきた、本物のチーム医療の構築に必須と考える次第であります。
すなわち、前回ブログ「使命感」の中で申した、価値感から使命感へのなめらかな移行には、その過程に「羞恥心の優しい取り扱い」が重要ということです。
さて読者の皆さん、もうそろそろ嫌になってきたのではないでしょうか。
今までのお話、かいつまみながらちょっと摘んで超本気で通訳させて頂きますと、
チームスタッフそれぞれが、それぞれに持つ羞恥心に対して、お互いに「本気でかはゆし」と思える寛容性を持てるかどうか、言い換えれば、お互いの羞恥心を少しだけくすぐるといいますか、このことは結局、若手を「褒めて育てる」、「誉めて伸ばす」という伝統にもなろうかということ、
まあ無理くりに、悪しからずの結論とさせて頂ければ幸いでございます。
心臓外科を長き生業とする小生、思い起こせば今も昔も恥ずかしきことの数々でございます。でも後々考えますと、すべての進歩は自己への恥ずかしさという羞恥心から始まるということ、
ですから、小児心臓外科医に限ってですが、羞恥心を『集恥心』と自動筆記しても宜しいかと思うのです…。
続きます。
手術において重きとするポイントは、その時々のその時期々々で、多少の爺化とともに少しずつ変容していきました。しかしながら今思えば、「手術における自己への羞恥心」および「若手への羞恥心」には、全く変化が無かったような気がします。