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コラム

羞恥心.com Chapter6

さて読者の皆さん、
「マイプライベートサージカルヒストリー」、思えば恥ずかしきこと数々なれど、
その当時の小生の羞恥心、決して棚の最上段に上げることなく、正直にお話を進めてまいります。

それではさっそく、今日このごろの折…、
モニター画面で弟子奴らの手術を追っていますと、十年二十年という時の流れが一瞬の間に過ぎ去ってしまったかのような、不思議な回顧的妄想に襲われてしまいます。
「何をチンタラやっているんだ」という叱咤を伴う羞恥心とともに、全速力で突っ走ってしまうような焦り感が何故か湧き上がり、小生の眼はモニター画面を飛び越えて勝手に手術を押し進めてしまうのでございます。
それは小生が今まで、他者の手術を見学することが殆ど無かったせいでありましょうか、それとも、辛い時も楽しい時も、同じくらいハードに動きまわるという習性のせいなのでありましょうか、
少なくとも、画面に向かって「頑張れ」と応援することはありませんし、そうやって画面を見つめる小生を「君は師匠の見本ともいえる存在だね」などと褒める奇特な人ももちろんいないのです。

手術というもの、毎回々々それぞれの個性というものがあります。そしてもちろん、一つの手術の中にも時間とともに変化していく個性があります。
ですから若手に必要なことは、手術それぞれの個性に順応できること、手術にだけは恥をかかないこと、そして、手技の中に「手術的な頭の良さ」を感じ取れること、でありまして、
そんな思いを胸に、「一所懸命に力を傾ける若手の全力手術」、日がな一日、診ている小生なのであります。

それでもようやく慣れたのでしょうか、多少の恥じらいを感じつつも、「上手くなれ上手くなれ」、「お前なら大丈夫」などという、「おもいやりの心」とは言えないまでも「かはゆしの羞恥心」をベタにさらけ出しているのでございまして、
そんな小生はとても愉快で日本人らしくもあり、中庸に自己満足しているのであります。そんな小生をある若手いはく、「とってもイイ人になりました」とのこと、はじかみをハニカミながら端(恥)噛みする気分となるのでありました。

若手というもの、「自己への羞恥心」を多く重ね、そして咀嚼して、ロートル外科医の羞恥眼に耐えながら成長していくものなのでしょう。
「こういう外科医が育ったから、子どもにこういう悲しいこと(辛い価値観)が無くなった」、そのように言われる手術人になってくれることを切に願っております。
ですから、目の前の真新しき羞恥心に惑わされず、手術の本質に不可欠な羞恥心だけを変わらずに持ち続けてもらいたい…、
今日も一人寂しき3畳の間仕切り部屋…、モニターには変わらない手術風景が流れております。

続きます。

ふるさとの夕日です。
「お天道様は見てますからね」、お約束の定義定款で育った小生、一日の終わりには多少の羞恥心を持ちながら相変わらずの直会へと突入するのであります。
でもいつまでも見られているのではなく、罰当たりながらそろそろ見る側にも回ってみたい年頃となりました。
「今日も思いやりの心で生きましたか?あーそうですか、それは良かったですね、日本人に生まれて良かったじゃないですか。」、そんな言葉がかけられるくらいには精進しているつもりなんですが…。