ラインの思い出 その四
ラインの思い出、既におせっかいな棚に乗っかっておりますが、取り敢えず、2枚ほどだけお見せいたします。
題名「薔薇と私」
題名「栄光への遥かなる手術道」
※ ICUへ向かう真夜中の外科医たちであります。
“なんとたわいない”、“なんと芸が無い…”などと、おせっかいな棚を診た皆さんのお声、十分に届いておりますが、この写真集に関する考察、今更ながらに続けることにいたしましょう。
改めて頁をめくりますと、さすがに大半は、理解もしくは良識の範疇を超えたものばかりであります。作成者自身もそこは“ウンウン”と認めざるを得ません。
しかし、しかしながら、何となんと、被写体が持つその非凡さと独創性には全くもって脱帽してしまいます。「どんな役でもこなせる演技力、どんな変装にも耐えきれる精神力、そして何もかもを見通す潤んだ眼差し…。」さすがにここまでの出来映えでありますと、“偶然ともいえる美”に目がくらみ、そして羨ましさだけでなく、妬みさえも感じてしまうのです。もちろん、何がすごいのかは主観の問題でございますが、万人がうべなうことだけは間違い無いと確信した次第です。
もちろん、送られてきたラインには、写真に加えてメール本文が付いております。
写真と文章のコラボの中で、一流から三流の論理をそれぞれに展開する若手外科医たち、残念ながらまだまだ半人前ですが、“手の術に生きる求道者”の気概を見るほかないのであります。そのような決して数字では表せない若手の情熱は、むしろ厳しくなったと言われる昨今の外科学で生き残るための必須条件と確信してしまいますし、加えて、“いいお婿さん”になれる特記条件であるとも妄想してしまいます。
もちろん若手には、あらゆる観点におきまして、依存から早めに脱却して欲しいと願っています。(できればあたかも依存がもともと無かったかのように。でもでも、外科学における依存というもの、むしろ我々上司の責任であるのかもしれません…)
ですから、ライン受信直後の、若手に対する慇懃無礼かつ丁寧な叱責、直ちに行うことがあります(早打ちができない上司外科医は直接ライン電話をすることが多いのです)。でも当然、そういった上司の言動は今の世では多少なりともハラス問題とされますし、そしてもちろんのこと、そうすることが翻って、小生の研修医時代の記憶の一部分をも同時に傷つけてしまうこと、さらに心の奥底で跳ね返って響きまわること、よくよく承知しているのです。でもしかしながらこういったTel議論もまた、上司と若手の輪廻的な修行道と考えるべきだと思います…。(神さまの人脈、いや神脈を活かし、子どもたちと若手たちのために、結構な頻度のお賽銭投資を繰り返すこと、これもモチのロン、上司の修行道です)
ライン報告の文字並べに費やす時間を、「長く感じなかったと感じる」ことが一回でもあれば、今度は、「長く感じない」ではなく、「短く感じる」ようになります。この感覚は、手術手技手順の進化と全く同じものであります。
“並ぶべく手順のリズムを覚えまくる”という意味での“ライン”、これはこれで、手術道にこれほど実用的かつ重宝するものはないと思うのです。
続きます。