錠前 その二
承前。
第二次反抗期に入った若手外科医が経験する「図書室での個に孤独」、これは上司を超えて成り上がるための大事なキッカケになると考えます。
まず第一に、
前回申したように、何とかして問題を解決したい時、いやむしろ何もかも将来の見当がつかない時にこそ、あたかも古本屋で本を探すように真夜中の図書室を徘徊していますと、宝くじ当選以上の確率で“棒に当たる”ことがあるのです。
また、いくつかの本や文献を並べて文字を“比較読”していますと、その内に何かしらのアイデアが浮かんでまいります。(文献の考察の中にひっそりと一文で書いてあることもありますし、循環器専門誌だけでなく、関連する生理学や代謝学の教科書に発見することもままあることです)
図書室は、そのような人たちに対して真価を発揮します。しかしもちろん、そんな無駄な“アナログ苦労”をしなくても良いと思われるかもしれませんね。でもでも、他人から勧められる本や文献を熟読できたとしても、それは後塵を拝すだけ、結局はその人以上にはなれないと思うのです。どこかで申したことですが、上司には手術手技で勝てるはずがありません。従いまして、まずは知識を蓄え、理論武装すること、それだけしか戦う術はないのです(でもそれができたとしても、“お前生意気だね”と、またウダウダ言われることになるのでしょうが…)。
そして、第二には、
一人孤独に流す時間軸の中…、“文字を利用して積極的かつ能動的に手術を想像かつ妄想する”、そうしますと「文字だけで触のシンクロ」ができそうな気がしてきます。このことは少なくとも、皆が集まる抄読会や会議では味わうことはできません。そのことを一度だけでも上手く実感できれば、その後はより楽に、「文字で手術が構築できる」ようになりますし、若手を言葉で指導することにも自信が持てるようになります。そういう時にふと上を見ますと、壁に掛かる写真から「結構いい仕事ができるじゃないか」と幻聴が聞こえてくるのです。
もちろん想像することは、実技や学問的なことだけではありません。特に親御さんや子供たち、そしてチームの多くの仲間と良好な関係を築くための妄想も広がっていくのです。こちらの方がぺーぺー者にはむしろ大事なことでしょう(このあたりはいずれまたじっくりとお話します…)。
一般病院の図書室、たとえ職員の1割しか利用しなくても、そのまた1割が“訳ありの人”として成長するのであれば、その存在意義は生き延びていきます。特に循環器専門病院では、収蔵すべき循環器専門誌を選んで、少しだけ工夫して並べておくだけで良いのです。
何かを解決させるための“鍵”を若手に渡す、いやもっと高尚かつアナログ的に言えば、“錠前”というべきでしょうか、古い南京錠のかかった大きな扉を開けてくれる手助けをしてくれるのが図書室であります。医療に存在する多くの矛盾、その一つだけでも矛盾なく説明してくれることもあるのです。
図書室は、必須の無駄としか言えないのかもしれません。がしかし、少なくとも「大人の世界だな」と、これまた爆妄想してしまうのです。
さて読者の皆さん、何だか、棒に当たった者の言い草ばかりで大変恐縮でございましたが、図書室に限らず、自分から進んで篤学する若手がいる限り、その成長の可能性を摘み取る“無センスな対応”という罪だけは犯してはなりません。組織の存続、そして人間を育てるという伝統の存続とはそういうものであると信じたいのです。
さて次回は、「ラインの思い出」と題しまして、小児心臓外科医が用いるの意義を、“ゴン攻めビッタビタに鬼妄想”させて頂きます。それではまた…、幸顚。
※ SIRS(全身性炎症反応症候群)研究における集大成のスライドです。この研究は旧今野記念図書室の真夜中の徘徊から始まりました。