外科医の浪花節 おまけ
「ユキちゃんのブログに出演してやってもいいぜ」、という最長老からのご要望(命令)が、経営企画部の方にあったそうです。(最近、何故か奴は、小生を避けています)
しょうがありません。今回、“おまけ”として、本人が最も気に入っているという、自撮りの“ふぉとぐらふぃー”を、ご提示したいと思います。
しかしまあ、一枚だけと約束させたのでありますが、榊原外科の最古参という矜持があるのか、はたまた諸般の事情が多すぎるのか、それとも単に性格上の問題なのか、なんと十数枚の写真が送られてきまして、その一つ一つに実に詳細な説明文があったのです。
加えて、添えられた手紙には、「青春がぎゅぎゅっと詰まった、他人の夢に忍び込むことができるくらいの、カッコええ納得ショット」と、忌々しいほど達筆でのことば書きが、毛筆でしたためられておりました。
しかし中には、この時代に不向きとされるものもあり、また、スペースも限られていますので、すべてを載せるわけにはいかない、と伝えたのです。
そうしたら、最長老…、始めのうちは、前週までの“パラレルいたずら”を謝罪する気持ちがあったのか、しばらくの間、猫なで声で喋っていましたが、しかし、いつのまにか、そのうちに、いつも通りの上から目線、「何を怖がっておる?正確な歴史を示さんかい!物事の結果を最初から考えてどうする、お前はまだまだ修行が足りんのう」、などと宣い、始末の負えない始末となったのであります。
結局、すったもんだした挙げ句、3枚だけで勘弁してもらうという、こちらが“下手”となる意味不明な決着をみたのであります。
「織畑式 人工心肺装置」(開発担当医 織畑 秀夫先生)
※1956年4月、低体温法とこの人工心肺装置を用いて、14歳男児の僧帽弁狭窄兼閉鎖不全に対し、交連切開と、弁輪の縫縮術を施行しました。
※この手術で使用された人工肺です。 輸液や輸血に使われていた、ガラス製のイルリガートルを応用したものであり、イルリガートル型気泡型人工肺と呼ばれました。しかし、ガラス製では消毒も不便であったため、また、体外循環流量の増大に伴って、その容量不足が指摘されるようになったことから、分解が可能なアクリル製に変更されました。
さてさて、あの逆ギレの最長老ですが…、理論肌、学究肌であること、大変けっこうなことです。しかし、細かいところには更にめっぽう五月蝿いという、実に迷惑な爺いなのであります。
多分そこには、手術を生業にするにあまり、“自分の眼しか信用できない”といった、もしくは、“要領の悪い生き方しかできない”といった、副反応らしきものがあるのでしょう。つまり、心の中と懐の中に、使命感だけを目一杯詰め込んでいるせいで、融通という大事なものが入り込む隙間も無いのかもしれません。
まあでも確かに、榊原外科としての、あの最初の開心術…、そこには、当時、最先端の若者機器としてのプライドが、何層にもかかっていたのでしょう。その気持ちは十分すぎるほどに、理解できます。
(もちろん、あの夜のはっちゃけ具合を思い出しますと、どうもその信憑性はかなり薄くなっていくのですが…)
“若者が育って、不動の体制が整う”、そうすると、“上司と言われる連中は、ひたすらにグレていく”、
どこかで作られた情念ともいえるこの格言は、あの大シンポジウム&大宴会以降…、小生にとっては、いつものごとく深く記憶に潜航し、そして、感慨もなく浮上する、そんな思いへと浄化してしまいました。
もちろん、“グレる程度”にも依るのですが、小児心臓外科医には、それくらいの時間軸で流れる方がちょうど良い…と思う今日此頃です。
※“斎藤さんだぞ” をイメージしたらしいです。この写真出さないと暴れるぞと、暴れたらしいです。
それでは皆さん、ここいらで失礼申し上げます。次回も長編大作続きます。