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コラム

外科医の浪花節 その四

「手術室の問題は手術室でのみ完結する」、いつぞ夜の事でしたか、レインボーブリッジに届くように叫んだ記憶があります。
しかし、小生のような輩が無意味に手術室におりますと、新人さんの中には妙な緊張感を強いられる方もいらっしゃるようです。自分としては好々爺、決して狂暴爺とは思っていませんのですが、これもある意味ハラスishとのご意見もございまして、またこの時期では、変装することも叶いませんので、今ではこそっと間がな隙がな、手術室外のモニターで弟子どもの手術を見守るようにしております。

そうこうしながら今現在、一人寂しく粛々とモニター画面を注視しております。しかし、それだけで手術室の流れを把握できるはずはありません。手術の本流が“つつっとつっとつと疾く疾くと”、時間に沿って上手く流れているかが気に掛かってまいります。もちろん、技士や看護師の流れに関しましては、執刀医が柔軟に切り回しますので、前回のブログで申したように、同様に“信頼、自負、非干渉”でOKです。それほどの心配はしていないのです。
しかしそれでも、“わずか数分の流れがとても長く感じられ、時間掛け過ぎではないかと時計を見るといつも通り、思わずホッとする…”、そんな風に気持ちはいつも、電柱の陰にたたずむ“星明子さん”です。

一方、このような環境において、これは大変不可解なことではありますが、働く人間の流れよりも、人工心肺機器の稼働状況の方が何故か妙に気になってしまいます。弟子どもに“信頼を持って任せる”などと大きなことを言ったせいか、手術中は誰に意見することも致しません。
このように孤独かつ寂寥感溢れる小さなモニター個室においては、そういうことも相まって、充分に危ないと自覚はしておりますが、“じゃあ機器に話しかけてみようか”とか…、“そしたら返事してくれるかもしれない”…などと、またまたついつい摩訶不思議な妄想に突入してしまうのであります。この時ばかりは、弟子どもよりも、機器の方が可愛く思えてしまうのです。

「最近どう?上手くやってる?なんか顔色いいじゃん、またスペックが上がったのかな?それにしても今日の手術はけっこう余裕だね、絶好調じゃん!スタイルも良くなったしね、それイタリア系のアクセサリーかい?超イケてるね」…、こんな風にできる限り、若者っぽく語り掛けてしまいます。しかしもちろん、そして残念ですが、機器は返事してくれるはずもありません。
モニターを介して手術室の機器に話しかけること、機器を愛するが故のことといいながら、かなり危険な変なおじさんだと思っております。テレパシーでも何でも宜しいですから少しでも返事を貰えれば、「今テレビ電話で話しているんだ」などと、周りには言い訳もできるのですが…。(実はこのモニターへの一人会話、“本当に危ないですね”と、真顔で言われたことがあります。今まではこういう性格ではなかったのですが…)
しかしながら、これは小生の希望ですが、“体外循環の管理を技士と機器の会話だけで行うシステム”、その開発を心の底から待ち望んでおります。現在においても未だに多くの問題を抱える体外循環ですから、このシステムの速やかな開発は当然の進路だと思うのです。ですから、機器との会話するおじさんを単に危ないと思ってはいけません。でも、その進捗はまだまだ先のことでしょう。硬頭ボンバーヘッドの柔軟化は、この開発に限らず早めに必須です。(手術雑感③その二 参照)

さてさて、随分時間が経ってしまいました。もう少しで弟子どもの手術が終わりそうです。
徐々に霧散する妄想とともに、おじさん固有の危ない気配も拡散されつつあります。モニター画面にはただただ静寂な時間が流れていきます…。

日本の心臓外科黎明期に活躍した榊原外科の人工心肺機器たち、現在は、病院3階の榊原ホールの前廊下、そして今野記念図書室に鎮座しております。それらの内部には、未だに当時の機械油がこびりついています。(手術雑感 COVID19後 その二 参照)
機器が意思を持つということ、当然あり得ないことです。しかし、日本では、時間が経てばたつほど、古いものには魂が宿ると信じられてきました。もちろん別に今更ながら、スピリチュアルなことを信じる気持ちはさらさらございません。しかし、これら爺さまともいえる懐かしき機器たちであれば、何かしら喋ってくれそうな気配がするのです。

続きます。

※今野記念図書室…“Konno operation”を開発した今野草二教授の業績を初めとして、今では国会図書館にも収蔵されていない希少本、そして燦然と輝く“おせっかいな本棚”など、榊原記念病院の歴史を無理くり詰めこんだ、それこそ歴史的な図書室であります。後世への伝達は、循環器専門病院としての責務であります。つい先日も、今野教授が描いた神原教授の肖像画が搬入されました。