外科医の浪花節 その三
さてさて、上司の手術を凝視しながら、“そうかそうかなるほど、でもなー”、“俺だったらこうするけど”…などと、一人生意気に沈思していたあの頃…、若輩者だけが創り出すことのできるこの妄想手術の味は、時間経過とともに、青りんご的な多少の酸っぱさへと変化していくのでありました。
一方、今現在…、衣鉢を継ごうとしている弟子どもの手術、思う存分に時間をかけて見ていますと、あの時とはまた異なる感覚が黄泉帰って参ります。(今はこういった観戦も小生の大事な役割です。もちろん病院全体の質についてはとにかく眼を光らせております。気分は、ブラインドカーテンを指で下げる裕次郎さんです。)
ただ、異なる感覚とは申しましても、手術室への入室から退出まで、つまり手術の“流れ様”を最も重視する感性は、今も昔も同じであります。
弟子の手術に関して、もちろんまだまだ素直に頷くことはできません。“時間がかかる”と“時間をかける”の違い、そして、時間が無くなる時の時間の稼ぎ方や息継ぎのタイミング、さらに、手技を線としてたどるではなく手技の一点を全体にからめて進めること、などなど、結果として手技をなめらかに流す体内時計の修得には、今少しの時間がかかりそうです。
弟子への駄目だし、もちろんやらない訳ではありません。しかし、弟子に手術を許可することは、弟子への信頼を持って任せたということであります。また、手術の度ごとに、こちら側にいちいちお伺いを立てる必要がないよう、それだけの教育をしてきた自負もあります。手術中の時間感覚というものは、独自に存在するもので、時間がくれば“その内に育つ”というものでありますから、むしろ下手に干渉すべきではないのです。従って、弟子どもには、“必須の無駄”について回りくどく話すことはありますが、手技に関して取り立てて何かを言うことはありません。(おせっかいな本棚 その三 参照)
ただしかし、次のような「時間に対する対応」だけは、ドヤ顔を持って注意しております。
それは、緻密な手技を行うためとか、子どもの将来のQOL向上を言い訳に、手技にかかる時間を30分よけいに取っても良いとする言い分です。もちろんこのこと、現在では特に問題となるものではありませんし、それはそれで正解です。しかしながら、その30分を少なくとも15分とするように常日頃から鍛錬しておくこと、このことだけは発展途上の外科医として怠ってはなりません。もちろん前述した、「その内に育つ」という“その内”をなるべく短くさせる、こちら側の援助も必要なのです。
「手術に時間をかける」という考えは、あくまでも手術中に限って、そして、手術ごとに発生するもので、そこで初めてじっくりと対処するものと考えます。手術前からの当て書きではないのです。
そしてこれは当然ですが、時間をかける際には、周りに遠慮無く甘えても文句が出ないよう、チームの各員に、日頃からの気配りと時間配りをしておくこと、忘れてはいけません。
なにしろ、妄想が無秩序に湧き出すという点において、人後に落ちないと揶揄される小生でございます。
弟子どもには大変申し訳ないことでありますが、指導するための観戦と言い訳をしながらも、この爺的な時時の時間を過ごすこと、実を申しますと、あくまでも小生自身の手技向上を目的として手術を観ているのです。おかげさまで、妄想的にはむしろ今の方が、ホンマモンの流れを脳内構築できております。何とまあ呆れたことであります。
今まで積み重ねてきた手術手技、時代時代それぞれに相克した考えを持っておりましたが、それぞれが徐々に雪がれ、それぞれに相生していくような錯覚を持っています。恥ずかしながら、そして今さらながら、納得かつ時宜にかなう手術ができそうな気がするのです。
大変おこがましいことですが、外科医には生意気にも美意識というものがあります。綺麗なのかそれともそうでないのか、面白いのかつまらないのか、強いのか弱いのか、などなど…。しかし、残念ではありますが、これらの美熟度を自分自身の眼で客観的に判断することは中々できません。ですから、弟子どもの手術を見て、小生の手術というものを嫌というほどに妄想し、そして弟子どもへ他生のフィードバックをするのです。
小生、今も昔も、人の手術を見ることはあまり好きではありません。でも、「時間」というものに規定されない便便だらりの手術観戦、この時間軸だけはまさしく夢想であり、眠りを誘うように心地よく流れていくのです。
続きます。
※飛田給駅前のお空にはんなりと浮かぶお昼のお月さまです。気付かれないようにお昼寝しているようですが、残念…、見つかっちゃったね。