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コラム

外科医の浪花節 その二

ところで皆さん、「時間」というものに対する感覚、このコロナ禍の中で“変わったな”と感じるもの、何かございましたでしょうか?(小生の開け五つから六っつまでの時間感覚は、軽部風エンタメ修行の効果により、とっくの昔に微妙に栄えある色合いとなってしまいました。最近の芸能事情でしたら一時間は楽に騙る自信がありますし、時間もまた豊富に揃えております。

一方、循環器専門病院としての物理的な時間感覚としましては、これは小生個人の感覚ですけれども、何故か今まで通りで変化無しという、平凡な感覚を持っております。
しかし不変とは申しましても、また加えて定年後の心情を差し引きましても、意識の下にもともと存在する時間感覚とはかなりの隔たりがありますし、“物理的感覚が不変”という感覚そのものも、コロナ禍以前とは全く異質なものと感じております。
もちろん時間感覚とは、あくまでも個々に漠然としたものであります。しかし、このような疑問を伴う新たな感情の現れは、この時期の「時間」というものに対する、焦燥感から生まれてくるものなのでしょうか?それともゆったりと「時間」を構える安堵感の結果なのでしょうか?少なくとも、こういうご時世だからこそ、自分だけ働いているかのように宣う御仁だけは、信用しないほうが宜しいかと思います。

さて、相も変わらずに少し話が飛びます。
一所懸命に働く一個人が何かによって“規定”されるということ、もちろんよくあることです。良い意味では、このことが一つのカラー、すなわち個性というものを作り出します。
しかしこの規定因子は、いずれ一緒に働く仲間やチーム、そして病院の質までをも別腹的に規定してしまう可能性を秘めておりますし、また、もしかしたら、そこに集まる若手の大事な将来をも同様に規定してしまうかもしれません。
それらの規定因子には、良くも悪くも、キャリアアップの経過とともに、右往左往する様々なものが存在しますし、それぞれに変容かつ影響し合いながら、個々人から全体へと流れる功罪を作り出すようです。
読者の皆さんの中にも、仕事をスムーズに流すために、もしくは組織の発展を考える上で、これらの規定因子については随分悩まされた経験があるのではないかと推測します。従いまして、それぞれの規定因子とそこから発生する長短所については、管理者たるもの、常日頃から存分に考えておく必要があります。

さてさて、このような観点におきまして、小児心臓外科学の修行において反響かつ波紋を呼ぶ規定因子、特にその中でもいつのまにか偶然に嵌ってしまうもの、小生の経験上、何と言ってもそれは「時間」であります(もちろん職種に関わりません)。これは既に何度も申したことですが、治療の時間軸におけるタイミングと偶然性が、すべての結果、即ち、成績やその後の臨床経過だけでなく、働き方や職場環境、ひいては個人の出世や病院経営というものまでに差し響くのです。もちろんそれを良しとするのか、それとも悪しとするかは、管理者いろいろ病院それぞれです。(でも、出来る出来ないの色分けしか考え切れないことだけは、誠に下賤であります…)
しかし、外科医として発展途上であればあるほど、時間という因子は、[喰う、無い、ある、失う、作る、使う、掛ける、要る、損する、取られる、割く、過ごす、費やす、移す、稼ぐ、切れ、経つ、通り、去る、つぶす、見る、問題、優先、金なり、無駄、先取り]、などと、良くも悪くも、“永久に付き合わなければならない大切なもの”と考えるべきであり、それこそ何度も何度も痛く感じざるを得ない場面に遭遇してしまうのです。

「時間軸」というもの、その使い方と使われ方の質により、特に外科人の心は、それらに比例もしくは反比例しながらブレ動きそして流れていきます。
外科学における時間というものは果たして、積極的に迎え撃ち戦うべきものなのでしょうか?それともこちらから優しく招き入れるべきものなのでしょうか?…。
いずれにしましても、過去の時間を巻き戻すことで、昔の懐かしき“時の流れ”を取り戻すこと、できるはずはありません。それだけは絶対に間違いないことです。
時間という潮流に規定されることは、それなりに苦労することでもありますが、それほど悪いことでもないと思うのです。

続きます。

※以前からよくお邪魔している深大寺近くの神社です。今まで随分と喧嘩を売らせて頂いておりましたが、最近ようやく大人になったせいか、幾ばくかのお賽銭増加とともに、ゆったりとした時間軸のもと、安らかにご挨拶させて頂いております。