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コラム

インカの野積み崩し②「対義語ホンマもんの最終稿」

このように小児心臓手術というものは、“密中の密”です。“対義中の対義”です。

ソーシャルディスタンスをしては、とても成り立たないのです。(多少は蜜な気分ではありますが…)

 

そう言えば、今考えますと、修行時代を含めて、すべてが密で流れていた気がします。

密だったから、仲間たち皆で緊急手術の対応ができたのです(自分の勉強不足を棚に上げた、ひねくれた被害者意識的対義語考察もありましたが…)。

 

もちろん、手術だけではありません。

真夜中の術後管理、そしてそこで繰り広げられる、治療方針決定のためのある意味熱いケンカ的議論などなどにも密はありました…、

 

“密”は小児心臓手術の「根っこ」そのものです。残念ですが、密になりきることができなければ、チーム医療の一員とはなれません。

 

また、さらに考えてみますと、患者に対する我々の接し方もすべてが密だったような気がします。

密であったからこそ、患者さんは、より「納得」されていたのかもしれません。

(榊原記念病院では患者の満足度という言葉はあまり使いません、患者の納得度と言っています。)

 

最近は、医師も看護師も技士も技師も、“専門職”という肩書が多くなりました。

この専門とは、飛び切りの知識と技量を持っているということらしいです…。

ホンマかいなと思うこともしばしばありますが、循環器領域においても、治療を専門かつ中心に行うための大事なポジションであります。

 

しかし、専門であればあるほど、自分の専門しかやらない、もしくはできないという弊害はやはりあるように思います。

(実に対義なことです…)

 

言葉は完全に悪いですが、患者さんに対して、それぞれの専門職が自分のやることだけ、寄ってたかって接することになります。

でも、患者さんにとっては、やはり、“総合的に密に接してくれる”たった一人が欲しいのではないでしょうか。

例えば、今の思いや医師への文句を聞いてくれるような…(ヒロシ風に“対義です…”)

 

医療は、専門的になればなるほど、患者さんへの恩恵は大きくなるでしょう。医学の発展にもつながります。

もちろん、COVID-19の時代、「密」であることはできるだけ避けなければなりません。

しかし、我々心臓医療従事者は、その専門性の意味に加えて、患者さんとの密だけでなく、仲間たちの人間関係の密というもの、そして密となることがどれだけ大事なことかを、再度深く考えなければなりません。

少しだけ、「対義語的議論」の復活が必要です。

 

何度も申し訳ありません。年寄りの野暮々々ですが、昔の“500例の小児心臓手術”を思い出すべきです。

この混沌とした時代においても、小生の仲間たちが全くブレない心でいること、大変誇らしく思っています。

 

すみません、これで最終稿にしようと思ったのですが、もう少し喋りたいと思います。

さらに続きます。

 

 

左が当院の某看護師に描いてもらった小生の肖像画、右2つが小児心臓外科医の弟子どもが描いた小生(…だそうです)

見事なまでの「対義」です。絵の修業もさせなければなりません(…お前が言うかとツッコまれそうですが)。