Doctor Blog

コラム

概念的

インカの野積み崩しが始まったばかりですが、またもや大きく脱線します。

拙書が出版されて時間が少し経ちました。
本屋さんに平積みされているのを見ますと、何とも妙な気分です。
他の本より一段低くなっていると、“お~、一冊売れとる”と思わずホッとしてしまいます。
もっと目立つようにと並べ替えようとも思いましたが、流石にそれは遠慮させて頂きました。

多くのご意見を頂いております。最も反省しましたのが、“高橋の話は概念的過ぎて具体性に乏しい、従ってよく分からん”、“いつも聞いていることだから新鮮味がない”、というご指摘でした。う~ん?…

さて、「概念的」とはどのような意味なのでしょう。

デジタル大辞泉によりますと、「個別性を問わず、概括的・抽象的にとらえるさま、物事について大まかに把握するさま、特定の事例によって推論された、また導き出された抽象的または一般的な考え」とされています。

“もともと、いい加減で飽きやすい外科医体質ですのでご勘弁下さい”、と開き直ってもみましたが、なるほど確かに、ウイスパーボイスで言葉少なめと言われる小心者(傷心)の外科医ですので、常日頃から、“結局良く分からん”と、皆さまに良く叱咤されていることも事実であります。
う~ん、やっぱりそうか?…

さてさて、元気を出して言い訳をしましょう。
人の命や教育、心への対処、人生など、すべてにおいて明確な答えと結論は無いと思います。
自分自身の経験とそこから生まれる概念的発想から、それを読み解く手段を考えて、人それぞれに、そしてその度ごとに結論を出していくものと考えます。
特に人として生きる道などは、自分とは異なる職種からもらう知識から発展させていくことの方が多く、また、初めて聞く概念的なお言葉からおなかを冷やさないように消化吸収させていくことが殆どではないでしょうか。

(少し調子が出てきました)
要は、過程が重要ということであります。思考を始める“とっかかり”は極めて概念的であっても何でもOKと思うのです。
(かなり無理やりな論理となってまいりました。少しお神酒が入っております…)

概念的発想は、それを皆さんに一緒になって考えて欲しいから喋る訳で、話す方は、聞く側の皆さんの中に自分と同じように感じ考える人がいることを期待しています。そして、そのことをどう議論するのか、どう理解し合うのか、そのような意識がないと、あやふやな命題は解決していかないし、次には進めないと考えます。

例えば、運命とも思える閃きや神さまの啓示のように、ビビッと感じることから直ぐに物事にのめり込むのではなく、故ジャックマイヨール氏が、あたかも錘(おもり)がたゆたゆと海にと沈むように何かを感じながら潜っていく、そして海の青さとその意味を十分に認識できたら、素早く浮かび上がってきてさらにのめり込んでゆく、そんな感じでしょうか。
(申し訳ありません、かなり概念的な話になってしまいました)

“最近は、万人が理解できなければ意味が無いという風潮がかなり多いのではないでしょうか?“、“誰もが理解できて感動する本なんて誰が買うのでしょうか?”、また、“誰もが分かる理屈だったら改めて文章にする意味などありません”などど、ついつい外科医らしいひねくれた考えをしてしまいます。

子どもの一生に付き合う、また後継者を育成しなくてはならない外科医だからこそ、知識をもらうだけの本や話で感動することは許されないこともあると考えます。もちろん、そのような外科医にとって、強力な腕とエビデンスを持つことは最低必須の条件です。

だからこそ、概念的雑感を持って喋るべきであり、概念的人間で生きるべきと考えています。
“いい加減で飽きやすい外科医”、“訳わからん外科医”と言われるのは必然なのです。
(お神酒から西洋酒に変更しましたが、あちらの方では西洋酒もお神酒というのでしょうか?…)

人の話の中で大事な事は良く聞くべきです。しかし、経験上「何を言っているのか分らん」、聞く方にはその位がほど良いこともあるようです。そこからの過程を大事に大事に育てること、最も魅力的なことと最近は心からそう思っています。

筆者自身にとってはとってもとっても大事なもの(外科的常識)なのに世間では相手にされないもの(世間的非常識)、そして概念的と言われるもの、さらに訳分らないと馬鹿にされるもの、しかし、そんなものに一所懸命になっている自分は何故かとっても可愛いらしいものに思えてしょうがありません。
ですから、非常識な外科医が『概念的で少しだけ親切な面白み』を皆さんに伝えることができればいいなと考えます。(少しは売れてくれればと願いつつ、睡魔にはやはり勝てません。おやすみなさい。)