インカの野積み崩し①「高井研一郎先生 最終稿」
調布の夜、高井先生の顔の広いこと広いこと、行く徘徊先々で、それはそれは大いに盛り上がります。
何度、ご自宅まで、送り届けたことでしょうか?(小生の自宅は当時、高井先生のご自宅から数百メートルの距離にありました)。
いつでも遊びに来いとおっしゃるので、真夜中の仕事場にもお邪魔させていたこともあります(そこら中に六平太の原画が散乱していました、“恐怖の桃ちゃんもいます”)。
当時、調布の街の皆さんからは、小生、“高井研一郎の介護人”とも呼ばれていました。
研ちゃんのお話は、本当に新鮮で面白かった。特に、手塚治虫先生のアシスタント時代のこと、また、トキワ荘時代の、赤塚不二夫先生、石ノ森章太郎先生、つのだじろう先生の思い出には、心の底から感激してしまいました。
山口六平太の連載500回の記念パーティーにも、ご招待頂きました。新宿の旅館風某料理屋です。
“ゴルゴ13”のさいとう・たかを先生、“おれは鉄平”のちばてつや先生、“釣りバカ日誌”の北見けんいち先生など、そうそうたる面々です。その中でも、小生、最も感激したのは、“ダメおやじ”の古谷三敏先生です。連載当時、ダメおやじには、かなり入れ込んでいました。
漫画家の先生方と編集の方々との飲み会、マニアにとりましては、それはそれは、涙無くしては語れない最高の思い出となりました。
しかし、府中移転後、手術数の増加に伴ってなかなか時間が合わず、少しずつお互いの連絡が途切れるようになってしまいます。
そして……、2016年11月某日、突然の訃報が舞い込みます。
無沙汰であったこと、恒例の生前葬に参加できなかったこと、また、本葬にも参加出来なかったこと、とても申し訳なく反省しています。
さて、逝かれてから随分の月日が経ってしまいました。しかし、それが偶然にも、恐らく因縁ですが、またお会いすることとなります。
2018年11月下旬の夏休み、奄美の加計呂麻島へ徘徊に行った時のことです(小生、殆ど夏休みを取ったことがありません、取れても外科医の夏休みは冬休みとなります)。宿はその島へ渡るフェリーの港町、古仁屋です。一泊朝食付きのプランでした。島の夕日をチクチク眼で感じながら、夕食に屋外での上手い奄美の島料理(しまじゅうり)を食べてチェックイン。
さあ寝ようかとフロントで鍵を貰う、あれッ!
壁に六平太の絵がある、しかも直筆っぽい??
支配人いわく、確かではありませんが、“男はつらいよ”のロケについてきて、ここで長泊、その時に描いてもらったとのこと。
う~ん、懐かしい、こんなとこまで奴は進出していたのか。少し涙目になります。
“あっ、いけね!”、直ぐに閉店間際の魚屋へ駆け込みました。そして、少し色鮮やかな刺身と黒糖焼酎を買います(お店で上から二番目に上等なものです)。
もちろん献杯用ですが、でもそれ以上に、今夜化けて出てこないよう心からお願いするためのものです(シングルモルトでしたら、恐らく出てきたことでしょう)。
生前、研ちゃんからは、旅行先での面白話も満載に聞いていましたが、あの爺さま、まあ色んなとこで、いろんなことをやらかしていたようです。無沙汰した分、研ちゃんが、この奄美での再会をもし喜んでくれたのであれば、小生、誠に幸せ者です。
そして、なんといっても、最高のインカの野積みなのです。
合掌!