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コラム

手術雑感4 ~手術のストレス その2~

“これがストレスか?”
 
このCOVID-19の時期、宅飲みや宅犬遊び、宅読書など、今まで通りの “ストレス解消らしき” プライベート時間は増加しているのですが、屋外を自由に散策する時間がまず無いということがどうも理由のようです(徘徊ともいいます)。
皆さんは “なんじゃ、そんなことかい” と思われるかもしれませんが、何故か妙に自然が恋しいといいますか、憧れと黄昏を足して2で割った感覚、いや、失恋して砂浜を無駄に走りたいという感情…(いや違うか)、なんだかポッカリと寂しさを感じます。これは、どうも “ストレスらしきこと” のようです。COVID-19の特殊な症状なのでしょうか?
 
また、こういう時に限って(むしろこういう時代だからこそ)、全く人の気持ちを慮る(おもんばかる)ことのできない少し異常ともいえる、また、空気の無い世界に生きているのかと錯覚するような、今まで聞いたこともない非人間的病的発言が舞い込んできます。
さらに気持ちが荒んでしまいます。
 
結論を言ってしまえば、人間のストレスなんて集中して行う仕事には全く起きません。その前後の人間の発言仕様から発生するものであります。
“ストレスのすべては人間の望んだ結果である” と、先日お参りした神社の第二摂社の神さまはおっしゃっていました。“それは俺の責任ではないから、お願いなんてするんじゃない” とも…。
 
それでも、この時期、時間に余裕ができたせいか、昔の “500例仲間” と話す機会が増えました(もちろん電話とラインです)。
ブログの影響かもしれませんが、これは今まで無かったことであります(決して黄昏爺が救いを求めた結果ではありません)。
そういえば、サザンの桑田さんは “黄昏” を “セピア” と呼んでいました(今回はこれ以上脱線しません)。
 
彼らとの会話で興味深いことは、500例当時のことを、“本当に愉しかった” と言ってくれることです。めちゃくちゃ多忙で、滅茶苦茶な精神状態、すなわち “ストレスだらけだった生活” にもかかわらず、心からそう感じてくれているようです。
 
このことは、今だから理解ことができるのでしょうが、彼らの医療従事者としての使命感とそのブレなさの賜物と解釈できます。それでも当時、“高橋だけはもう勘弁してくれ” などと、秘かに思うところはやはりあったと想像します。
 
彼らの一人が言ったこと、「当時は無駄なものをなるだけ削ること、つまり集中して時間短縮することが子ども達の倖せにつながったことは間違いない、でも今は、それに加えて、極めて無為な時間を作るようにすることも、子ども達の倖せはもちろん、自分の倖せにもつながっている。」
訳分からんと即突っ込みましたが、よくよく考えますと、これはこれで現在のストレス解消の大事な一手段ではないかと思うことができる気がします。
たまにあるこの無為な時間が心から貴重なものに思えるようになる。これが休むということであり、そうするとプレッシャーがある日常にすぐに戻れるのかもしれません。
 
当時は、どんなにストレスがあったとしても、それが苦にならない分だけの愉しさがあったのかもしれません。
また、単純に当時のストレスを忘れるくらいに今が愉しいのかもしれません。
そして、あれ位のストレスはストレスでは無いと堂々と言えるまで大人になったのかもしれません。
このような当時若者であった爺たちの妄想話、これはこれでけっこう楽しいものです。寂しさというストレスが無くなりました。さて、もう少し頑張ろうか!