手術雑感3 ~人の縁 その4~
今、日曜日の午後16時19分、お昼寝から目覚めたところです。
午前中に病院の見回りをして、帰宅して、ブログを少しだけ書いて、そしていつの間にか昼寝していました…(昼寝なんぞ、今までめったにしなかったことであります)。
それが何と、夢に榊原教授が出てきました。場面は、大きな講義室での授業風景です。どうも持針器の使い方の講義を、教授がしているようです(夢ですから、状況が上手く把握できていません)。突然、教授から指名され、前に来いと言われた小生、後ろの席から黒板の前まで走って行きます(夢ですから何故かよくわかりません)。
教授、小生の胸に持針器を当て、“いいか、こうやって縫うんだ、わかったか!”
そこで目が覚めました。夢に出て来られたのは初めてです。なんとも不思議な夢でした。そろそろ、福井にあるお墓参りに行かなければならないのかもしれません。
さて、外科医の腕についてのお話です。
先日、テレビで、故中村勘三郎さんのドキュメントを見ました。歌舞伎に素人の小生にはよく分からなかったこと、それは経験とともに、“円熟味を増す”という言葉です。それが、大御所や観客の皆さんからの評価であれば、それはそれで大変嬉しく思うことなのでしょう。
でも果たして、自分のことを、自分自身でそのように評価できる時期が来るものなのでしょうか?観客の前で芝居を積むこと、つまり経験を重ねることで感じることができるものなのでしょうか?
外科医は、何年も何年も同じこと(手術)を繰り返して行っています。そして多くの経験を積んでいきます。長い間、多くの困難な手術をこなすことで、ようやく少しは自信を持って、若手に手術を見せることができるようになりました…。子どもたちのための倖せな手術についても考えることができるようになりました…。確かに、そのような自負感を持つことはできます。
しかしながら、ロートルとなった今でも、経験を積んでいる、もしくは勉強しているという感覚が残っているということは、はっきり言えば、まだまだ修行中であり、完成していないということです。
残念ながら手術道的には、完成という段階には達していないことを示します。
…外科医にとって、円熟味なんて、夢のまた夢のようです。
いつになったら、自分でそれを感じて、納得して“メスをおろす”ことができるのでしょうか?(外科医が引退することを、メスをおろすといいます。)
続きます。