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コラム

手術雑感3 ~人の縁 その3~

写真は、1984年当時に使用した、縫合の練習器です。
中にあるリングに布を張って、それを上の穴から縫い、そして糸結びの(結紮といいます)訓練をするのです(右写真のように穴は小さく絞ることができます。深い場所を縫うことを、深部縫合といいます)。
榊原記念病院に入職後の最初の3年間は、この練習器で一所懸命に練習した記憶があります。でも今は、小生を含めて誰も使用していません…。この練習器は、現在、榊原記念病院の図書室の奥深くにホコリかぶって鎮座ましましております(ある時、廃棄処分になろうとしまして、なんとか必死に留めました)。

ところで、野球の選手やサッカーの選手etc.は、ベテランになればなるほど、身体のメインテナンスに加えて、ボールに対する感覚、試合における感覚を失わないように、気を引き締めて基本練習を繰り返し、しっかりと行っていますよね。
ベテランだからこそ若手に負けないためように、若手のボールへの反応以上に身体が反応できるよう、努力をしています。
年食えば体力は落ちるのですから、これは当たり前のことです。

でも、外科医は…。
年食った外科医が、縫合や結紮といった基本練習をしているとこと、あまり聞いたことがありません。
もちろん、年食ってきたとしても、現在の最新鋭の機器を用いていれば、そこには、経験という大きなハンディキャップがあります。ですから、手術そのものは、それらの経験をもとにして、より思慮深く行うことができるでしょう(最近、仏の高橋と呼ばれています)。
しかし、年食えば腕は鈍り、体力は落ち、それだけ手術時間が長くなると思うのです。
基本練習をしないこと、果たして良いことなのでしょうか?それなりに安定したフォームで手術ができるようになっていれば、外科医はそれで十分なのでしょうか?
そのうち、“手術ってものは頭でやるもの”という言葉を恥ずかしげもなく、大声で叫ぶようになるかもしれません。

手術は、手の術(スベ)と書きます。頭ではなく手でやるものだということ、これは今でも真実であろうと思います。
昔の、あの人工心肺装置を使用していた頃の外科医のように、素早く終わらないと、また適格に縫わないと、子どもは助からない、そのために、しっかりと手技の一つ一つを会得し、維持しなければならない、そして、自分の腕を磨きすぎるほど磨く。
そのような考えは既にアナログと呼ばれるものなのでしょうか?

古いものを今更ながらに話すことは、多分に野暮ということ、もちろん重々承知しています。
でも、便利な機器の開発と外科医の腕の進歩、これらは反比例するものなのでしょうか?

還暦を過ぎ、定年前になって、またまた考えざるをえない状況となっています(もちろん宅飲み下での妄想です)。

続きます。

1990年代の人工心肺装置です。