② 外科学と仏道が響き合う地点
はじめに
―― 時間の深層へと坐す者として
仏教において「時間」とは、真直に過ぎ去っていくものではない。
それは「生起しては滅し、滅してはまた生じる」という、無数の刹那の泡沫が連続しているような“縁起の場”である。私たちが「一つの時間」と呼んでいるものは、実は数え切れない生滅のつらなりが仮に見せている、儚くも美しい幻影なのである。
私は長年、祈祷・法会・葬儀・観法を通して、この“時間が変質する瞬間”を幾度も見てきた。そしてその時間の変質は、医療の最前線に立つ外科医?とりわけ高橋幸宏氏が語る小児心臓外科の時間?と深層で響き合っている。
外科医は生と死の境界で、瞬間に未来が折り畳まれる場に立つ。僧侶は生と死の境界で、悲嘆と受容がゆっくり溶け合う場に立つ。両者はまったく異なる地点に立っているようでいて、じつは同じ一点、“境界の時間” と呼ぶべき深い層に触れている。
ただ、医療は未来へ向けて手を伸ばし、宗教は未来を手放す。医療は死を押し返し、宗教は死を抱きしめる。
その違いは埋まらない。しかし、埋まらないからこそ、互いの営みが輪郭を保つ。
本稿は、高橋氏のブログ、ご著書を僧侶として読み、宗教と医療という“交わらぬ二つの道”が何処で、どのように、そしてなぜ響き合うのかを探る思想的旅である。
この旅を通して見えてくるのは、交わらないことが分断ではなく、“共鳴の条件”であるという事実だ。―― さあ、深層へ降りていこう。刹那に坐し、沈黙を聴くとき、外科医と僧侶の世界がひそやかに重なり始める。
第1章 時間論
―― 刹那と縁起が重なり合う“場”としての時間
仏教において時間とは、直線的な流れではなく、刹那が生滅を繰り返す連続的な“働き”である。過去・未来という観念は心が生み出しているに過ぎず、実体として存在しているのは無数の刹那が泡のように立ち上がり続ける“今”のみである。
外科医が手術中に感じる時間の歪み??時間が伸びたり、圧縮されたり、停止したように感じられる現象は、仏教で説く「心が時間を構成する」という真理と深く響き合っている。
赤子の心臓が小さな拍動を続けているその場で、外科医は刻々と変わる生理値、血流、温度、拍動の癖など“縁”の集合体を読み取りながら判断している。これは単なる医学的観察ではなく、縁起の働きを身体で受け止める実践である。
仏教でいう縁起とは、対象が独立して存在するのではなく、無数の条件によって“ただそう成り立っている”という世界観である。外科医はこの縁起を数字ではなく、手の感覚や視覚、呼吸を通して総合的に把握している。
高橋氏が語る“20分”という区切りの中で外科医たちが経験する濃密な刹那の積層は、仏教の「三世一念」?過去・現在・未来が一つの刹那に折り畳まれる?という時間観と構造が一致している。
その中で時に外科医は“手が勝手に動く”ような感覚に陥る。これは無意識が暴走しているのではなく、経験が深層に沈み、“場”の条件に応じて自然に最適化された動きが現れてくるためである。これを禅では「身心脱落」と呼ぶ。
時間は“私の外で流れているもの”ではなく、主体と世界が交差する地点で立ち上がる現象である。外科医はその現象を生命の最前線で扱い、僧侶はそれを観法を通して理解しようとする。
外科医の時間と仏教の時間は方法も目的も異なる。しかし、どちらも“刹那の深度”を扱うという一点において、驚くほど近いところに立っている。
時間とは、縁起が可視化する瞬間のこと。刹那とは、生命がもっとも濃く現れる瞬間のこと。ここで述べたように、外科医と僧侶は“時間の深層”を通じて静かに共鳴しているのである。
第2章 意識と無意識の交差(読経と外科手技)
―― 深層で触れ合う“沈黙の智慧”
仏教では、心を意識と無意識に厳密に分けることはしない。心は本来ひとつであり、波立つか澄むかによって領域が分かれて見えるだけである。外科医が手術中に語る「意識と無意識が交差する瞬間」は、まさに心が深層へ沈み込み、全体が一つの“場”として働き出す現象である。
この状態は、仏教でいう「三昧」に近い。三昧とは極度の集中状態であり、主体の輪郭が薄くなり、外界と心が一体化したように感じられる境地を指す。外科医が無意識のうちに最適な動きを選択するとき、その背景には長年の経験が沈殿した“智慧の深層”が働いている。
読経とは経文を声にする行為ではなく、声を通して自我を透かしていく行為である。呼吸・姿勢・声の響きがひとつの流れとして立ち上がるとき、読経者の「私」は前面から退き、声そのものが祈りとして響き始める。
外科医の「手技が勝手に動く」という感覚は、この読経の構造と重なる。“手技している”のではなく、“手技に導かれている”。これが可能なのは、無意識が曖昧な反応を示しているからではなく、深い訓練によって心の深層が整理されているからである。
外科医が感じ取る“心筋の抵抗”“血管の柔らかさ” “器械の音”“わずかな血流の変化”は数値化できないが、確かに情報である。仏教では、身体は智慧の通路とされる。坐禅において身体が緩み、呼吸が整うと、理性では得られない洞察が自然に湧き上がる。外科医の判断もまた、身体が世界と調和したときに現れる智慧である。
無意識は曖昧な領域ではなく、訓練された心が自然に働く場所である。仏教では阿頼耶識がこの深層の働きを担う。阿頼耶識には経験・痛み・祈り・後悔などが静かに沈殿し、必要なとき智慧として浮かび上がる。
手術室の沈黙は“何もない”のではない。沈黙とは、言葉を手放すことで縁起の網が顕れる瞬間である。無言でありながら、そこには膨大な情報が流れ、チーム全体が一つの意識を共有する。祈祷の沈黙、坐禅の沈黙も同じである。
外科医も僧侶も、自我が薄れるほどの集中状態に入ったとき、行為そのものが祈りへと変わる。祈りとは、願望ではなく、全力で向き合いながら結果を手放す姿勢である。主体が減衰するとき、行為は透明化し、世界の深層に近づく。
意識と無意識の交差は、対立ではなく智慧の誕生である。意識は方向を示し、無意識は全体を統合する。この二つが交わるとき、判断は深まり、祈りは透明になる。宗教と医療の道は異なるが、深層の“心の運動”は共通している。
沈黙の奥には、言語では届かない領域がある。外科医と僧侶がもっとも深く響き合うのは、この沈黙の領域においてである。そこでは行為も祈りも区別を失い、ただ「生命に向き合う姿勢」だけが残る。
第3章 時間を懐う(記憶論)
―― 記憶は個人に属さぬ“縁の深層”に宿る
記憶とは、単なる情報の蓄積ではなく、縁に触れたとき立ち上がる“働き”である。仏教では過去は消え去ったのではなく、「現在を形づくる条件として作用し続ける」と説く。外科医が救えた命も救えなかった命も、判断の奥で静かに響き続けるという事実は、この真理と深く一致している。
記憶は、個人の所有物ではない。むしろ、縁の海に沈んでいる波紋のようなものであり、必要なときにだけ浮かび上がる。仏教の「業」も同様で、過去の行為そのものではなく、行為が心に残す“傾向性”こそが未来を左右する。
外科医が語る「心臓の記憶」は、身体の業である。心臓は過去の負荷や治癒によって反応の癖を残し、その癖が未来の手術に影響する。外科医自身の判断もまた、過去の経験が深層で沈殿し、現在の判断を導いている。これは心の業にほかならない。
前述したように、阿頼耶識とは、心の最深層であり、経験・悲しみ・祈り・後悔など、すべてが静かに沈殿する場所である。僧侶が読経の最中に“声が自分を越えて響く”ように感じるとき、それは阿頼耶識が働いている証である。同じように、外科医が“なぜこの判断をしたのか説明できない瞬間”に遭遇するとき、阿頼耶識的な深層が働いている。
また、「懐う」という態度は、仏教的に極めて重要である。懐うとは、過去を手放すのでも、しがみつくのでもなく、心の中に静かに置いておく態度である。執着ではなく、忘却でもなく、過去とともに静かに坐る姿勢である。失敗や喪失を安易に意味づけず、ただその存在を認める、この態度が境界に立つ者の心をしなやかに保つ。
外科医が抱える喪失の記憶は、痛みだけでは終わらない。仏教では、他者の苦しみに触れたとき生まれる柔らかい心を「悲(ひ)」と呼ぶ。悲は沈む心ではなく、他者に寄り添う慈悲の入り口である。喪失の記憶は、悲を経て慈へ、そして智慧へと変換されていく。外科医の誠実さとは、この変換を長い時間をかけて続ける力である。
記憶は直線ではなく螺旋である。同じ出来事が時を経て別の形で立ち上がり、意味が変わる。ある失敗が別の患者の命を救う判断へつながることもある。これは“螺旋的記憶構造”であり、過去が未来を縛るのではなく、未来の自由度を広げる働きを持つ。
祈りの記憶は個人を越える。僧侶の祈りは歴代の僧侶の声・姿勢・沈黙の積層によって成立しており、個人の願望によって支えられていない。同じように外科医の手技も医療史の積層がその背後にある。どちらも“個を越えた働き”として理解できる。
記憶とは、未来を育てる静かな根である。
外科医の判断も僧侶の祈りも、過去の記憶が深層から静かに作用することで成り立っている。「懐う」とは、過去が静かに未来を導くのを見守る態度であり、境界に立つ者にとって欠かせない心の姿勢である。
第4章 仏教と医療の断絶と対話
―― 交わらないことで生まれる“深い尊厳”
宗教と医療は、しばしば対話を期待される。しかし、根源的に見れば両者は全く異なる方向を向いている。外科医は未来を操作し、死を遠ざけ、生命を延ばすために働く。仏教は未来への執着をほどき、死を抱きしめ、存在の苦を理解させるために働く。目的も方法も価値軸も異なるため、両者は本来交わらない。
医療は「未来を変える学」である。一つの判断、一つの手技、一つの選択が未来の運命を左右する。外科医の手は未来に向けて伸ばされている。手術は過去でも現在でもなく、“これから訪れるであろう未来”を形づくる行為であり、そこには厳しい成功と失敗の二分法がつきまとう。
一方、仏教は「未来を手放す学」である。未来に固執する心こそが苦を生み、現在を曇らせる。僧侶の祈りは未来を保証するためのものではなく、いまここにある苦を照らすための灯火である。未来の結果への期待は、祈りの純度を曇らせる。
医療は死を避ける。仏教は死を中心に据える。ここに両者の最大の断絶が存在する。外科医にとって死は敗北であり、できるかぎり押し返すべき境界である。僧侶にとって死は自然であり、生と対等であり、恐れではなく理解の対象である。死という現象に対するこの相反する態度は、両者が同じ言語で語ることを不可能にする。
しかし、この断絶こそが尊厳でもある。医療と宗教は別の場所から生命を支えている。この二つの道が混ざってしまえば、医療は宗教的希望に呑まれ、宗教は結果主義に汚染される。断絶は分断ではなく、互いの本質を守る境界線である。
また、外科医の沈黙と僧侶の沈黙は質が異なるようでいて、深層では同じ構造を持つ。手術室の静寂は、極限の集中と恐怖と判断が凝縮して生まれた沈黙である。祈祷や葬儀の沈黙は、悲しみと受容と愛別離苦が溶け合って生まれる沈黙である。どちらも自我が退き、世界の深部が前に出る瞬間に生まれる。
医療と宗教の対話は失敗しがちである。その理由は、互いに相手を“自分の枠組みへ引き込もうとする”からだ。だが、真の対話は相手を理解することではなく、「理解し合えないという事実を理解すること」である。これを仏教では“不二(ふに)”と呼ぶ。二つのものは同じではなく、しかし完全に分離しているわけでもないという知恵である。
外科医と僧侶はまさに“不二”の関係にある。異なる方向を向いて歩んでいながら、同じ深層の震え?境界の時間?を経験している。この震えこそが、道は交わらぬまま響き合う理由であり、生命に向き合う者が共有するもっとも深い感覚である。
断絶は孤立ではなく、成熟である。外科医は死を押し返し、僧侶は死を抱く。その二つの力が人間の生死を立体的に支えている。交わらないからこそ、二つの道は互いの営みを照らし合うことができるのだ。
第5章 境界に立つ者の倫理と連帯
―― 揺らぎを抱きしめて歩むという成熟
外科医も僧侶も、生と死の境界に立つ存在である。しかしその境界は一本の線ではなく、揺らぎ続ける“帯”のような空間である。生は徐々に死へ傾き、死は静かに生へ影響を残す。境界とは曖昧で、常に揺れ、固定されることがない。この揺らぎの中にこそ、境界に立つ者の倫理が生まれる。
倫理とは、正しい判断を下すことではない。なぜなら、正しい判断が常に正しい結果を生むとは限らないからだ。外科医は最善を尽くしても救えないことがある。僧侶は丁寧な祈りを捧げても悲しみを癒せないことがある。結果が保証されない世界で何が倫理となるのか、それは“誠実な向き合いそのもの”である。
外科医が自分の迷いを認めながら、それでも最善の判断を試みる姿勢、僧侶が遺族の苦しみに寄り添い、慰めを急がず、ただ共に坐る姿勢…、このような姿勢こそが、境界に立つ者の倫理である。倫理とは規則ではなく“姿勢の美学”である。
揺らぎは弱さではない。揺らぐとは、世界の複雑さを正しく理解している証である。迷わない者は、自らの観念に閉じこもり、他者の痛みに耳を塞いでしまう。揺らぐ者だけが、境界の重さと多層性を理解し、世界全体へ心を開くことができる。揺らぎは成熟した心の証明である。
外科医と僧侶には、それぞれ異なる孤独がある。外科医の孤独は生死の結果を担う孤独である。僧侶の孤独は誰の悲しみも完全には取り除けないという孤独である。しかし、この孤独は弱さではなく、境界に立つための“内なる空間”を確保するために必要な道具である。孤独は祈りの土壌であり、慈悲の源泉である。
外科医が“自分が動かしているのではなく、動かされているように感じる”と語る瞬間がある。僧侶も“祈っているのではなく、祈られている”ように感じるときがある。これは仏教でいう無我の境地である。無我とは主体が消えるのではなく、主体と世界の境界が薄まり、縁起の働きと連続していく状態である。
無我の状態で行われる判断や祈りは、個人の能力を超え、慈悲としての智慧に変わる。外科医の行為が祈りに近づくのは、無我の境地で縁起全体を感じながら手技を行っているからである。僧侶の祈りが深まるのも、無我が静かに働くときである。
境界に立つ者同士の連帯は、手を取り合うことではない。理解し合うことでもない。連帯とは“相手の揺らぎを尊重すること”である。外科医は僧侶の祈りの限界を責めず、僧侶は外科医の迷いを評価しない。互いの揺らぎを否定しないとき、静かな響きが生まれる。この響きが境界に立つ者の連帯である。
外科医と僧侶が共有しているのは技術でも思想でもなく、“境界の時間”である。この時間は過去・現在・未来が折り畳まれ、一瞬が永遠のように重く、永遠が一瞬のように軽く感じられる深層の時間である。この層では、祈りも判断も同じ質を帯びる瞬間がある。
揺らぎの中を歩むこと。それこそが誠実さであり、祈りである。揺らぎを抱いた者だけが、生命の境界で慈悲の光を灯すことができる。外科医と僧侶は道こそ交わらないが、同じ揺らぎの底で確かに響き合っている。その響きこそが、境界に立つ者の倫理の証明である。
おわりに
―― 交わらぬ道が、深く響き合う理由
宗教と医療が交わらないのは当然である。
外科医は未来を形づくり、僧侶は未来を手放す。外科医は死を押し返し、僧侶は死を抱きしめる。目的も方法も価値軸も異なる二つの営みは、融合する必要がない。むしろ混ざり合えば互いの本質を損なう。
しかし、生と死の境界に立つという一点において、外科医と僧侶は深く響き合っている。そこでは時間が層を変え、沈黙が言語となり、主体が薄れ、ただ「生命の震え」だけが残る。この震えこそ、境界の時間である。
境界の時間では、過去は完全には去らず、未来は完全には来ず、現在は圧縮され膨張する。外科医はこの深い時間のなかで手を動かし、僧侶は同じ層のなかで祈りを捧げる。行為も目的も異なるが、その根にある「揺らぎの感受」は同質である。
外科医には救えなかった命の記憶が残り、僧侶には共に祈り泣いた遺族の記憶が沈む。これらの記憶は消えず、癒えず、しかし深層で静かに変化し、慈悲の根へと育つ。記憶は過去ではなく、未来を形づくる静かな力である。
揺らぎ続ける心は、弱さではない。揺らぐとは、他者の痛みに触れ、世界の複雑さを受け入れ、自己を固めず歩み続ける姿勢である。外科医の揺らぎも、僧侶の揺らぎも、同じ成熟の証である。揺らぎこそが祈りであり、誠実さである。
道は交わらない。しかし響きは重なる。交わらぬという距離が、互いの営みを守り、深め、照らす。外科医の祈りにも似た集中と、僧侶の祈りにも似た沈黙は、同じ深層で互いに応答している。
その応答を私は「救い」と呼びたい。救いは結果ではなく、態度であり、方向であり、静かな光である。境界の時間に触れた者だけが知る、言葉なき慰めである。
生命の境界を歩むすべての者へ。揺らぎを抱きしめて歩きなさい。そこに誠実さがあり、祈りがあり、そして深い人間性がある。道は交わらずとも、あなたの歩みは必ず誰かと響き合う。
