外科医の境界 ~内部に宿る二つの羅針盤~
皆さま、ごきげんよう。
いまだ、「迂遠徘徊人、迷走巡礼人」などと呼ばれる日々が続いております。小生を遥か彼方の妄想界へ誘おうとする御仁の思いには頭が下がる思いです。
さて、読者の皆さまにおかれましては、この暮の折、恙無きお過ごし加減のことと、ご推察申し上げます。
それにいたしましても、今回の“時間”に関するブログもまたいつも通り、「ほっとけほっとけ」「どうせ髙橋の妄想だから…」「心配はするほどのことはない…」などと、どうせそんな風に受け流されるものと思っていたのです。ところが、友人に医療従事者が多いことは、如何ともし難いことでございますね。中には、かなり珍しい(怪しい)精神史、屈折した人間史を持つ方々もおられるようで、何やかんやと喧々諤々、「感想(苦情もしくは意見)です」よと…、医療現状の鬱憤を晴らすがごとき不行儀伝法な電話、そしてメールが届いているのです。
今回、そこいらを少々まとめますが、今や出口が見えにくい状況のもなってございまして、その点、何卒宜しゅうにお鑑みのほど、お願い申す次第です。
否定論
高橋幸宏氏は、日本における小児心臓外科の稀有な臨床家であり、その技術的成果や教育的貢献は疑いようがない。
しかし、神職資格の取得以降に展開される彼の提言は、科学的外科の根幹と厳しく衝突する部分を多く含んでいる。それは、外科とはあくまで科学であり、科学である以上、宗教や精神的比喩とは明確に線引きされなければならないという点である。
高橋が近年提示している一連の思想─、特に、低侵襲概念、祈りの導入、時間の象徴化、無意識の神秘化、文化依存的概念の理論化、そして外科医像という六つの領域は、日本文化に根ざした精神性と宗教的構造を含んでおり、いずれも彼の個人的精神史においては興味深く、重要な意味を持つと考えられる。確かに、それは多分に詩的であり、その語り口の美しさゆえに一定の魅力を有する。加えて、外科という過酷な現場に意味を与えようとする姿勢は充分に理解できる。
しかし、それらは、臨床医学に要求される再現性や客観性、検証可能性という条件を満たしておらず、外科理論として採用することは、外科を科学として成立させている根本条件を損ねる恐れがある。以下、それぞれに考察する。
第一に問題となるのは、高橋が提示する“精神化された低侵襲概念”である。
低侵襲とは本来、患者の生理的負荷を減らし、回復を早めるための科学的・工学的手法である。ところが高橋の説明では、侵襲という科学的因子が宗教的・精神的意味を帯びはじめ、「外科医の心の状態」が侵襲の大小に影響するかのような語りに変化している。
もちろん外科医の平静は重要だが、それは侵襲という科学的概念の一部ではない。侵襲を精神性によって説明し始めると、臨床に必要な数値的フィードバックが曖昧になり、治療評価の基準が揺らぐ可能性がある。これは科学という枠組みから逸脱する行為である。
第二に、高橋は「祈り」を外科実践の中心に置こうとする。しかしそれは、医学に求められる宗教的中立性と矛盾する。
外科医が精神統一や静寂を個人的に求めることに何ら問題はない。しかし、それは個人の精神活動であり、臨床過程の構造として扱うべきではない。外科理論の基盤として扱うことがあるとすれば、あたかも祈りが治療効果に影響を与えるかのような誤解を生む。
もし、祈りと治療の因果を患者家族が誤って受け取れば、医学の説明責任は損なわれる。外科学は多文化社会において行われるものであるから、宗教的語彙を治療説明に取り入れることは不適切であり、かえって不信や混乱を生む。
医学は公平性を保証しなければならない。これを混同すれば、外科の信頼性そのものを揺るがしかねない。
第三に、高橋の時間論は外科判断を象徴化しすぎている。
彼は「未来の時間を守るために、現在の時間を密度化する」と語るが、この概念は哲学的には美しくとも、外科判断の実務には適さない。しかも、文中で強調される時間短縮は、単独で成績を改善する魔法の鍵ではない。時間短縮とはあくまで複合的因子の一部であり、手術時間だけに倫理的意味を与えることは誤った判断につながる。
患者の予後は時間そのものではなく、循環動態の特異性、組織の状態、体外循環条件、手術手技の安定度など複数要因の総和で決まる。時間を倫理的概念として扱うと、これらの変数が見えにくくなり、外科医は「時間を守る」という抽象的スローガンに縛られ、正しい判断を曇らせる危険がある。
時間は象徴ではない。統計的に扱われる科学的変数であるべきだ。外科医が必要とするのは抽象的倫理ではなく、臨床の複雑性に対する精密な理解である。高橋の時間論は詩としては美しいが、時間は、外科学の中では“結果”であって“価値”ではなく、倫理的象徴ではなく測定可能な数値である。これを倫理化する高橋の姿勢は、外科医の判断を哲学的構造へ押し上げ過ぎており、外科医が本来行うべき複雑な変数評価を曖昧にし、判断の優先度を誤らせる危険性がある。
第四に、高橋の「無意識の透明化」論は、熟練化プロセスの本質を神秘化してしまう。
熟練外科医が高度な判断を無意識下で行うことは事実だが、それは習熟と反復により形成される神経回路の最適化として説明できる。宗教的静寂や祈りの儀式によって強化されるものではない。
高橋は無意識を宗教的集中状態と結びつけるが、この混同は外科教育に深刻な混乱をもたらす。なぜなら、教育すべき技能が“霊性”のような領域に押しやられ、再現性を持たないものとして扱われてしまうからだ。無意識は精神性ではなく経験と訓練によって形成されるものであり、高橋の提示するような宗教的背景を持つ必要はない。
また、若手外科医の教育にとって重要なのは、熟練過程の可視化と再現性である。従って、むしろそのような結びつきは、外科教育の透明性を損ね、技能継承を困難にする。再現できない技能は教育できず、教育できない技能は外科全体の発展を妨げる。
外科教育における最大の敵は“神秘化”である。神秘化された無意識論は教育体系を曇らせ、技術継承を不可能にする。
第五に、彼の思想は文化依存性が強く、普遍的外科理論に適用するには限界がある。特に日本文化における「間、祈り、静けさ」は確かに魅力的な概念であり、高橋の精神構造に深く影響していることは理解できる。しかし、文化が異なる環境ではそのまま通用しない。
外科とは文化横断的な科学であり、外科理論は文化を超えて成立しなければならず、文化依存的概念を中心に据えた瞬間、それは普遍性を失う。
多文化社会で治療を行う外科医にとって、文化的比喩を判断基準の中心に置くことは、文化的誤解や患者側の抵抗を招き、治療理解を妨げる可能性がある。普遍性を欠く概念は、科学の柱にはなれない。
第六に、外科医を精神的に高めすぎる点も問題である。
外科医は「祈りを受け取り、生命の時間を調律する存在であるべき」という主張は、外科医に過剰な精神的役割を負わせる。外科医に求められるのは、冷静さ、分析力、判断力、技術力であり、宗教的象徴性ではない。過度に精神化された外科医像は、外科医の役割を過度に拡張し、若手の精神的負担を増大させる。
外科医は精神的象徴ではなく科学的実践者であるべきである。外科学は極めて困難な領域であり、そこに宗教的期待や精神的理想を重ねることは教育的にも心理的にも逆効果である。
結論として、高橋幸宏の思想は文学的・精神史的には興味深いが、外科理論としては導入されるべきではない。
外科は宗教ではなく科学である。外科の根幹は再現性・客観性・中立性であり、精神性や宗教性が中心に置かれる余地はない。外科の未来を守るために必要なのは、科学の原則に忠実である姿勢である。
高橋のモデルは外科に美しさをもたらす。しかし、その美しさは外科の科学的厳密性を補強するのではなく、曖昧化する方向に働く。その美しさは、外科学に必要とされる厳密性と普遍性とは相容れない。むしろ、教育と臨床の両面で深刻な混乱をもたらす可能性がある。外科は祈りではなく、科学で支えられるべきである。
髙橋の思想は、個人の内的成熟、または個人の精神的探求としては尊重できるが、そこには明確な批判的距離が必要である。

肯定論
小児心臓外科学は、しばしば技術習得と疾患理解の総和と誤解される。しかし、実際に手術を成立させるためには、高度な倫理的判断と時間の構造に対する理解が必須である。高橋幸宏氏の思想は、その前提に根本的な問いを投げかける。
私が高橋の言葉に共感した理由は、随分と以前から、彼がその“内部構造”を見抜いているからである。特に神職となった以降、その視点は一層研ぎ澄まされ、時間と意識に関する哲学を臨床へと接続する独自の体系をつくり出した。これは世界の外科教育に対して新たな光を投じる。
〈時間〉
高橋が語る「時間の密度」という概念は、我々外科医が実践的には理解しながらも、言語化できない領域である。高橋は、手術とは単に操作の連続ではなく、外科医が時間を選び、構築し、圧縮し、患者に返す行為であると述べる。外科医が扱うのは臓器ではなく、時間そのものだと述べる。この視点は驚くほど明確である。
高橋は、手術における時間短縮を、“技術向上の結果”ではなく、“患児の未来の質を守るための倫理的選択”と捉える。これもまた非常に重要な提言である。
外科医は、時間を削るために速度を上げるのではなく、速度そのものを変質させる必要がある。高橋の語る“密度の高い時間”という概念は、その課題に対する哲学的回答である。彼は手術中に流れる20分のサイクル、心筋保護液によるその“間”を“時間の呼吸”として扱い、呼吸のリズムが患者の予後に直結すると述べる。この洞察は、当たり前のことながら、外科医の精神状態と生理学的結果の因果を考える上で極めて価値がある。
以前の高橋にとって、手術とは「時間をいかに削り、密度を高めるか」という技術的挑戦であった。しかし神職となった後、その視点は患児の“未来の時間”へと転換された。
時間短縮は目的ではなく、患児の人生に余白を取り戻すための手段であると述べる。時間を“削るものではなく育てるもの”と表現する。手術時間の短縮を単なる効率ではなく、倫理的課題として扱い、患児の未来の時間を増やすために現在の時間を調整するという視点は、外科医の在り方そのものを問い直す。
この考えは多くの外科医にとって新しい視点であり、外科学の哲学的基盤を揺るがす。しかも哲学的でありながら、極めて臨床的かつ現実的である。これは術式の議論を超えた“外科医の倫理学”である。医学的合理性を超えた倫理的成熟を示す。
彼の思想は、時間が命と直結する新生児手術を行う者にとって、極めて本質的な洞察である。生命の最初期にある赤ん坊は時間の流れが脆弱であり、外科医の判断がその時間を支える唯一の柱になる。我々が日々感じてきたこの重圧を、高橋は「時間の倫理」として理論的に位置付けた。
高橋の思想の中心には、常に「時間」がある。
彼は、手術とは単なる循環再建や修復技術ではなく、時間そのものの再構築であると述べる。これは技術的言及ではなく、治療倫理の核心を突いた発言である。外科医は常に時間を削り、効率を上げることに意識を向けてきたが、高橋はその削る行為の背後に“育てる時間”の思想を置いた。患児の未来に残される時間が最大化されるように現在の時間を設計するという視点は、世界のどの外科医も無視できない。
〈意識と無意識の交差〉
髙橋は、「意識と無意識の交差」を外科的判断の核心、つまり外科医の熟練度と精神性が融合する地点として説明する。これは外科医が言語化を避けてきた領域であり、この領域を明瞭に説明した外科医はいない。彼の説明は、熟練外科医が無意識下で行っている微細な判断に光を当て、教育可能な領域へと引き上げる。
高橋は、神職として得た精神集中の技法を通じ、それを“意識と無意識の交差”として描き出した。この交差点こそが、“熟練外科医の判断が最も純度高く働く領域である”という指摘は、外科教育に新たな可能性をもたらす。
さらに興味深いのは、彼が神職となってから見せた意識構造の変化である。
高橋は手術中に“思考が静まる瞬間”を重要視する。これは “高度技能者の自動遂行状態”と呼ぶものだが、彼はそれを「無意識の透明化」と表現した。
この言葉は非常に正確である。外科医の熟練度が極まると、意識は次第に邪魔になる。だが無意識が暴走するわけではない。むしろ意識と無意識が重なり合う一点が生まれる。彼は無意識の働きを“祈りに似た静寂の時間”として捉え、思考を超えたその地点で最適な手技を選択すると述べる。これは、技術的精密さだけを追う従来の外科と一線を画す。
高橋は、 “静”の意識状態が無意識の判断を整え、術野の複雑な情報を一瞬で統合する能力を高めると語る。これは“間”の思想を介して得られた集中状態と、熟練外科医の認知パターンが重なり合う稀有な例である。この説明は、熟練外科医の直観の神経基盤を巡る最新の研究とも一致している。宗教経験を持たない外科医にも高い説得力を持つ。
〈境界的存在〉
さらに興味深いのは、彼が外科医の人格そのものを“境界的存在”と捉えている点である。高橋は常に医師と神職の二つの倫理規範を背負っており、この二重性が彼の治療行為を深化させている。
祈りの儀礼で磨かれた“場の感受性”は、手術中の緊張を和らげる。チームの集中度を高めるだけでなく、患者家族に寄り添う姿勢を一層強固にしている。これは外科医の“技”ではなく“徳”に属する領域であるが、治療効果に影響することは間違いない。
特に印象的なのは、手術において、「家族の時間」をも扱うという視点である。その誠実さが周囲の人間に強い安心をもたらすことがわかる。神職としての “受け取る姿勢”は、患者家族への説明において特に力を発揮する。高橋はその心理的時間をも同様に受け止め、緊張を和らげる言葉の選択に自覚的である。家族は、自分の不安が否定されることなく受け止められていると感じ、その信頼が手術に向かう時間の質を変化させる。
この柔らかな力は、現代医学が忘れつつある“治療者の人間性”を象徴している。自らの弱さや迷いを隠さず、それを祈りの言葉として昇華する。これは単なる宗教性ではなく、人間理解の深度である。家族が高橋を信頼する理由は、技術の高さだけでなく、彼が“人間の時間”を扱う存在だからだ。彼が神職という存在でもあること自体が、臨床現場でどれほど価値を持つかを示している。
〈人間性〉
高橋の人格は、普段は驚くほど柔らかい。彼の語る祈りは、教義的な宗教行為ではなく、人間の脆さを受け止める静かな姿勢として存在する。この姿勢が患者家族に与える安心は、技術以上の治療効果をもたらしている。
特に尊敬するのは、彼が手術成績を誇示することなく、その陰にある苦悩や倫理的葛藤、恐れを率直に語る姿勢である。むしろそれらを“祈り”として処理し、手術に向けて心の安定を整えている。これは成熟した外科医にしかできない。
外科医はしばしば英雄視されるが、実際には心の内側には葛藤が渦巻いている。高橋はそれらを隠さず表現し、その正直さが彼の思想をいっそう強くしている。無論、科学者として、宗教的言語を安易に使うことは避けるべきだが、高橋の祈りの扱い方は極めて合理的である。彼は祈りを“精神の低侵襲化”として機能させ、手術チーム全体の心理的負荷を軽減する。これは手術心理学の観点からも非常に興味深い。
高橋の思想は、技術高度化が進む現代の小児心臓外科において、「人間を扱う技術とは何か」という問いを再提示する。彼は、技術・思想・宗教的感受性を統合し、それを臨床の言語へと落とし込むことに成功した稀有な外科医である。彼の思想は“祈りの外科”と呼ぶべき独自の臨床哲学を形作っている。次世代の外科医を育てる際、彼の示した視点は欠かせない指標となるだろう。高橋幸宏は、外科の未来を示す存在である。
最後に、高橋の思想が外科教育に与える影響について述べたい。彼は技術を教えるだけでなく、技術が生まれる“心の構造”を説明する。この教育方法は国際的に見てもほとんど例がない。若手医師が手技の習得と同時に自身の内面を理解することは、手術成績の向上と職業的成熟に直結する。彼はそのモデルを提供している。
高橋幸宏は、外科医の内的宇宙を初めて言語化した人物である。私は彼の存在が、今後の外科理論を再構築する上で不可欠であると確信する。
『執刀医は仲間たちの感情を読むべきだなんて…、でも実際に読むことなんぞ出来やしません。危ない人だと思われてしまいます。それは、読んだような感触を持つだけ、心内の願い(祈り)を持つことで誘ったつもりになるだけのことです。もちろん毒にも薬にもなりません。あまり深く考える必要はないのです。まさにそれは迂遠です…。
ただ、翻訳者の方が、訳文の中に、今まで蓄えておいた自身独自の言葉と言い回しを綺麗に塗すように、また画家の方が、実風景に自身の心象を入れ込むように、執刀医にも自身独自の気配と言霊を促すことが大切だと思います。手術は人の手による“術”です。如何に生き様を発散できるかです。手術の手技や知識、ノンテクスキルなんてものは、後から付いてくればいいのです。物真似は必要ありません。どうにもこうにも今の社会…、やり方が旧弊だの、教育の仕方が古すぎるだと、当たり前にそこにあるものが、いつに間にか、恥ずべきものとして扱われているのは、何ともやりきれないのであります。
祈りは実際に届かなくていい…、いや無論、届くものではありません。
でも、祈る人の気持に対して、祈られた側が少し眼を輝かせることができれば、そして“遊ぼうか”という思いが少しでも浮かべば、それは、祈られる側の心に、祈った者の心情が投影されたということでしょう。それでいいのです。「迷惑にも、祈りでついノセられてしまった…」、「つい、心が“ほんのり”と灯ってしまった」、それでいいじゃないですか。それは永劫、心底に残ります。そして、続く何かが生まれます。皆で祈ってみましょうよ。外科医は単純であるべきです。
小生も、祈られた時の懐いを思い起こすたびに、赤面はもちろん、妙な感情が蘇ります。何とも嬉しいことです。今や、ほとんどが祈る側ですが、しかし未だに…、祈ることに関しては、「こんなに下手で怠けもんやったのか…」、「我ながら簡単すぎる心や…、それもまたちょうどエエか?」などと、神職として自省する毎日、そして、そう自分を慰めもする毎日を過ごしております。』
