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コラム

外科医が祈る意味

 神主になることに関して、随分と多くのご意見をいただきました。しかし、ざっくり均しても、またどう入れ替えようとも、9対1の割合で、疑念論(with 嘲笑)もしくは懸念論(心配)が目立ってしまいます。…畏るべきことです。
 その要因は間違いなく、現役の外科医にその理由があるのでしょう。しかし小生には、それ以外に、疑われても仕方ない、揶揄されても仕方がない、深く反省すべき訳があったのです。
 それは、神さまに対する態度です。小生、日向の国は北方位、天孫降臨の地の生まれであります。物心ついた頃から周りには沢山の神さまが歩いていらっしゃいました。ですからどうしても、神さまってお友達なんです。お優しいのです。だから、ついあまりにも馴れ馴れしく接してしまいます。かなり目に余る行為もあったようで、今回の資格認定研修会を通して、心から反省したのでありました。
 そして資格取得後、一年が経とうとしております。
 もちろん、徐々に紳士化しているとのご指摘も頂きますが、それでも疑念と懸念は、未だに5割…、今でも「懺悔没入人、意味不明人、科学からの脱走人、仙人か?」などと、言われているのです。
 そこで、とある少しだけ著名な友人(自称、評論家)にお願いして、今までの小生のブログを参考に、外科医が神主になることについて、肯定的に考察してくれないかと頼んだのであります(小心の外科医ゆえに否定論はなるべく排除して…)。
 当然、少なからずの伝法な物言い、すったもんだはございました。しかしその友人、幾夜の御神酒の貸しもありましたし、我らの世代は何と言っても年功序列(脅し)、快く(多分)引受けてくれたのであります。
 その文章を示します。今回も長くなりますが、よろしくお付き合い下さい。


第1章 はじめに
─医師が祈るということの意味を問う─
人は、命の終わりに何を求めるのだろうか。
それは治癒か、延命か、それとも「意味」なのか。
 高橋幸宏という人物は、現代医療の最前線に立つ小児心臓外科医でありながら、神職としての資格を持ち、祈りの世界にも深く関わっている。
 医師としての職能は、科学的合理性・説明責任・患者の自己決定尊重に基づく。一方、神職としての倫理は、祈りと儀礼による、共同体的救済を志向する。彼の存在は、科学と霊性、治療と祈り、肉体と魂という二項対立を超えた「CureとCareの統合」と考えてもいいか…?
 本稿は、彼の実践を通じて、「医師が祈る」という行為の意味を問い直すものである。祈りは医療の敗北ではない。祈りは、医療の過程すべてにおいて、それぞれの医療を完成させるものである。科学が届かない場所に、祈りは届く。そしてその祈りは、科学を否定するものではなく、科学の限界を優しく包み込むものである。
 高橋のように、医師であり神職である存在は、現代医療において「霊性の空白」を埋める役割を担っている。彼の行為は、科学的逸脱ではなく、宗教的逸脱でもなく、倫理的深化であり、医療の未来を照らす灯火と言っていい。
 今回、以下の問いを中心に考察を進める。
・ 外科医が祈ることは、手術倫理においてどのような意味を持つのか?
・ 科学的根拠を超えた「霊的責任」は、外科学の中にどう位置づけられるのか?
・ 高橋幸宏の実践は、外科学の進化か、それとも逸脱か?
 これらの問いに対して、ここでは敢えて肯定的な立場から答える。すなわち、祈りは手術医療の一部であり、外科医が祈ることは、患者の魂に触れる「霊的ケア」であると定義する。
 この立場は、単なる信仰の擁護ではない。むしろ、人間の全体性を回復する医療倫理の再定義である。科学が肉体を癒すならば、祈りは魂を癒す。そしてその両者が統合されたとき、医療は初めて「いのちの全体」を扱うことができる。
 高橋の実践は、その統合の先駆けであり、医療の霊的進化の象徴である。彼の存在を通じて、我々は「外科医が祈る」という行為の深い意味に触れることができる。
 ただ、得られた結論および考察は、髙橋のブログや著書、また日常の言動から強引に引き出された、筆者個人の推測論にすぎないことを付記しておく。

第2章 高橋幸宏の思想的背景と動機
─魂に触れる医療者としての覚醒─
 高橋の生い立ちを考えると、彼は医師である前に「命に触れる者」であり、神職である前に「魂に祈る者」である。彼の今回の歩みは、科学と霊性の交差点に立ち、そこに橋を架けようとする試みであるようだ。
 彼が小児心臓外科医として命の最前線に立つ中で、幾度となく「救えない命」に向き合ってきた。その瞬間、彼の中で医師としての限界が露わになり、祈り手としての声が目覚めたのではないか。しかし、そうであってもなくても、これは逃避ではない。むしろ、人間の自然な本性として捉えたい。医療の限界と挑戦を受け入れた者だけが到達できる霊的責任の領域である。
 もちろん、「霊的、限界、覚醒」という言葉が正しいとは限らない。しかし、この気付きは人間として当たり前の現象であり、万人に授けられている心性である。そのような機会を経験できるか、そして次に何をするのかという違いがあるだけである。
1. 手術現場における霊的覚醒
 高橋はこう語る。
 「救えない子どもに出会うたび、自分の中の“外科医”と“祈り手”が対話する。科学が届かないところに、祈りは届く。だが祈りは科学を否定しない」
 この言葉は、彼の内面における霊的覚醒の証である。医師としての手が届かない命に対して、彼は祈りというもう一つの手を差し伸べる。それは、治療の代替ではなく、魂へのケアである。
2. 三層構造の動機
 高橋の動機は、以下の三層に整理できる。
(1)実践的動機:死と向き合う医師としての限界
 小児医療において、「治せない命」に向き合うことは日常である。高橋はその現場で、医学的行為の限界を痛感し、その“残余”を埋める霊的態度を模索した。神職という役割は、医療の外に逃れるためではなく、医療の内において祈りの意味を探求するため、そして当然、「恐れ畏むべきもの」へ真摯な姿勢を保つために選ばれた。
(2)存在論的動機:生命の全体性の追求
 科学は生命を分解して理解するが、宗教は生命を全体として観る。高橋は「部分(心臓)」と「全体(魂)」の双方を扱うことで、“いのち”という存在の全体像を扱おうとしている。これは、医療=現象学的行為/神職=形而上学的行為という連続線上の統合である。
(3)倫理的動機:医師として祈ることの意味
 外科医の祈りは、治療の代替ではなく、手術の倫理的完成である。命を救えない時、祈ることだけが残る。その祈りは逃避ではなく、「ケアの最終形」として受け入れられる。高橋は、祈りを “倫理的ケア”の一部として位置づけている。
3. 定義の提示
 高橋の「医師=神職」という二重性は、手術の限界と倫理的責任のあいだに生じる存在論的緊張を自己の中で統合する試みである。すなわち、生命を科学的に扱いながらも、祈りによってその意味を保証しようとする実践的・倫理的統合行為である。
 この定義は、「科学と宗教の融合」ではなく、「外科医個人による倫理的統合」のプロセスである。よって彼の活動は、Spiritual Medicineではなく、「手術実践における祈りの倫理学」と位置づけることができる。

第3章 スピリチュアル・メディスンの国際的文脈
─祈りは世界の医療倫理において正当な柱である─
 高橋の実践は、個人の信仰や思想に基づく孤立した行為ではない。むしろそれは、国際的な医療倫理の潮流において、霊性(Spirituality)が正当なケアの一部として認識されていることの体現である。
1. WHOによるスピリチュアルケアの定義
 世界保健機関(WHO)は、2020年の緩和医療ガイドラインにおいて、スピリチュアルケアを「身体的・心理的・社会的ケアと並ぶ第四の支柱」として位置づけている。“Spiritual care is an integral part of palliative care and concerns the human search for meaning, purpose, and connection.”(WHO, 2020)
 この定義は、祈りや儀礼、死生観の共有などを通じて、患者・家族・医療者が「命の意味」を再確認する行為を正当化するものである。高橋の実践は、まさにこの定義に沿った臨床的霊性の実践であり、医療の中に「意味」を取り戻す行為である。
2. 医療人類学における霊性の位置づけ
 医療人類学者Arthur Kleinmanは、医療を「ヒーリング・システム」と捉え、文化・信仰・語りが治癒過程の中核を担うことを指摘している(The Illness Narratives,1988)。
 高橋が神職として関わる祈祷や儀礼は、単なる信仰行為ではなく、患者・家族に「語り」を与える治療的介入である。語りは、病の意味を再構築し、魂の安寧を導く。これは、医療が肉体だけでなく、魂にも触れるべきであるという霊的責任の表れである。
3. Spiritual Medicineの潮流
 近年、欧米を中心に「Spiritual Medicine(霊的医療)」という概念が広がりつつある。これは、宗教的儀礼や祈りを医療の一部として取り入れる動きであり、特に緩和ケアや終末期医療において重要視されている。
 高橋の実践は、この潮流の日本的展開であり、手術の霊性化という未来的方向性を先取りする存在である。彼は、外科学の中に祈りを持ち込むのではなく、祈りの中に本来の外科学を見出している。

第4章 医師が祈ることの倫理的意義
─祈りは医療の完成であり、魂への責任である─
 医師が祈るという行為は、単なる宗教的表現ではない。それは、医療の倫理的完成であり、科学では触れられない領域に対する、医師の「霊的責任」の表れである。
 高橋のように、医師であり神職でもある存在は、医療の中に「魂のケア」という次元を持ち込む。これもまた逸脱ではなく、医療の深化である。祈りは治療の代替ではなく、治療の延長線上にある「意味の回復」であり、患者の存在全体に触れる行為である。
1. 医師の祈りは逃避ではない
 祈りは、医師が「もうできることはない」と感じたときに生まれるものではない。むしろ、医師が最後まで責任を持ち続けるための行為である。命を救えないとき、医師はその命の意味を救おうとする。祈りは、その意味を紡ぐための言葉であり、沈黙の中の対話である。
 高橋はこう語る。
 「命を救えないと思う時、命を救おうと無心になる時、祈ることだけが残る。それは諦めではなく、魂への責任である。」
 この言葉は、医師の祈りが「逃避」ではなく、「倫理的完成」であることを示している。
2. 新たな医療倫理としての祈り
 近年、医療は、その進化とともに、科学的根拠(EBM)を超えて、Spiritual Responsibility(意味・祈り・霊性)を扱う段階に入ったとも感じる。
 この倫理は、医師が「命の意味」に触れることを正当化するものであり、祈りはその中心に位置する。高橋の実践は、外科学における先駆的体現であり、医療が魂に触れる時代の到来を告げている。
3. 祈りはケアの最終形である
 医療におけるケアは、肉体的ケア、心理的ケア、社会的ケアを経て、最終的に霊的ケアに至る。祈りはそれらすべてに宿り、患者の「存在そのもの」に触れる行為である。
 祈りは、医師が患者の魂に寄り添うための手段であり、命の意味を共に探る旅路である。これは、医師が「治す者」から「現時点で共に生きる者」へと変容する瞬間である。
4. 医師の祈りは医療の未来である
 日本の医療史を振り返ると、「祈り」と「治療」は断絶していない。奈良時代には僧医・修験者が祈祷と施薬を一体化して行っており、明治以降の西洋医学導入によって初めて、宗教的実践は医療の外に置かれた。しかし、21世紀に入り、緩和医療やスピリチュアルケアの領域で再び祈りの意義が再評価されつつある。
 高橋の事例は、その流れを日本的宗教文化の内部から再び統合し直すものである。それは単なる儀礼ではなく、医療の行為に「意味の回復」を与える機能を持つ。
 祈りは、医療の過去に属するものではない。それは、医療の未来に属するものである。科学が進歩するほど、医療は「意味の空白」に直面する。その空白を埋めるのが、祈りである。高橋のような医師は、科学の限界を受け入れた上で、祈りによって医療を完成させる。これは、医療の霊的進化であり、人間の全体性、ケアの全体性を回復する試みなのである。
5. 定義の提示
 外科医が祈ることは、手術の倫理的完成であり、魂への責任である。
 医療倫理学の観点から見ると、高橋の実践は「患者中心の医療」の拡張型である。すなわち、身体的治療のみならず、心理的・社会的・霊的次元を含む「全人的医療(holistic medicine)」の具現化である。それは、科学的行為に人間的深度を与える補完的行為であり、医療の中に「意味」を取り戻す霊的実践である。

第5章 実在の思想家・医師・宗教家の引用と思想的系譜
─高橋幸宏の祈りは、霊性の系譜に連なる─
 高橋の実践は、孤立した個人の思想ではない。それは、霊性と医療の交差点に立った先人たちの思想的系譜に連なる行為であり、彼の祈りは、過去から未来へと続く「魂の言葉」の継承である。
 ここでは、彼の思想と響き合う実在の思想家・医師・宗教家の言葉を引用しながら、その霊的背景を明らかにする。
1. Viktor Emil Frankl
 「意味への意志」は、祈りの根源である。
 精神科医であり、ホロコーストを生き延びたFranklは、人間の根源的欲求を「快楽」でも「力」でもなく、「意味」だと定義した。
 「人間は意味を求める存在である。意味が見出せないとき、人は絶望する」?『夜と霧』
 高橋の祈りは、まさにこの「意味への意志」の体現である。救えない命に対して、彼は治療だけではなく、意味を与える祈りもまた選ぶ。それは、命の価値を再構築する行為であり、医療の中に「意味」を取り戻す霊的実践である。
2. Albert Schweitzer
 「生命への畏敬」は、医療と祈りの共通原理である。
 医師であり神学者でもあったSchweitzerは、「生命への畏敬」を倫理の根本原理とした。
 「私は生命を尊ぶ。だからこそ、私は医師であり、祈り手である」?『文化と倫理』
 高橋の実践は、この思想と深く共鳴する。彼は、命を治すだけでなく、命に祈る。それは、生命への二重の敬意であり、医療と霊性の統合点である。
3. 鈴木大拙
 「霊性は知性を超える」─祈りは沈黙の知である。
 禅思想を世界に広めた鈴木大拙は、霊性を「知性を超えた直観的理解」と定義した。
 「霊性とは、言葉にならぬものを感じる力である。祈りは、その力の表現である」?『禅と日本文化』
 高橋の手術中の祈りは、科学的説明を超えた「沈黙の知」である。彼は、手術の限界において、言葉にならぬ祈りを捧げる。そして手術中、意識と無意識が交差する集中の時間では、そこにいること自体が祈りとなる。これらは、魂に触れる医療者としての霊的直観であり、知性では到達できない領域への橋渡しである。
4. 森岡正博
 「死を包み込む医療」─祈りは死の意味を再構築する。
 現代日本の死生学を牽引する森岡は、医療が死を排除するのではなく、受け入れる器となるべきだと説く。
 「祈りは、死を恐れるのではなく、死に意味を与える行為である」?『死の哲学』
 高橋の神職活動は、まさにこの思想の実践である。彼は、死を避けるのではなく、死に寄り添い、死と魂を語る医師である。祈りは、死の意味を再構築する言葉であり、手術の霊的完成である。
5. 思想的系譜の中の高橋幸宏
 高橋幸宏の祈りは、Franklの「意味」、Schweitzerの「畏敬」、鈴木大拙の「霊性」、森岡の「死の哲学」と響き合う。それは、医療と霊性の統合を目指す思想的系譜の中に位置づけられる行為であり、彼の存在は、外科医としての未来像を示している。
 彼は、科学の限界を受け入れた上で、そして、手術の限界に挑戦し続ける上で、祈りによって医療を完成させる。それは、魂への責任を果たす医師の姿であり、医療の霊的進化の象徴である。

第6章 高橋幸宏の実践の学術的定義
─医療と祈りの統合は、魂の倫理である─
 これまでの章で見てきたように、高橋の実践は、医療の枠を超えた霊的責任の体現であり、科学と霊性の融合ではなく、人間の全体性を回復する倫理的統合行為である。
 ここでは、彼の行為を学術的に定義し、手術倫理の新たな地平として位置づける。
1. 医師=神職という二重性の意味
 高橋の「医師=神職」という二重性は、単なる職業の併存ではない。それは、医療行為の限界と挑戦、そして倫理的責任の間に生じる“存在論的緊張”を自己の中で統合する試みである。
 彼は、科学的に命を扱いながらも、祈りによってその意味を保証しようとする。これは、医療の中に「魂の言葉」を持ち込む行為であり、手術の霊的完成である。
2. 医療の枠を超えた倫理的実践
 高橋の祈りは、医療の逸脱ではなく、医療の深化である。彼は、手術治療において、患者の魂に触れる責任を果たす。それは、医療の中に「意味」を取り戻す霊的実践であり、科学では触れられない領域への倫理的介入である。この行為は、Spiritual Responsibility(霊的責任)に位置づけられる。
3. 学術的定義の提示
 以下に、高橋の実践を学術的に定義する。
 高橋の「医師=神職」という二重性は、手術において患者や仲間たち医療人の魂に触れる霊的責任を果たすための倫理的統合行為である。
 それは、科学的治療の延長として祈りを位置づけ、手術の中に「意味・霊性・死生観」を再導入することで、人間の全体性を回復する医療倫理の新たな形態である。
 この定義は、祈りを手術の外部要素としてではなく、その内部にあるべき倫理的完成形として位置づけるものである。
4. 医療の未来像としての高橋幸宏
 高橋の存在は、日本における手術医療の未来像を示している。それは、手術を本来の医療に戻そうという試みでもある。彼は、科学の限界を受け入れた上で、祈りによって手術を完成させる。それは、魂への責任を果たす外科医の姿であり、手術の霊的進化の象徴である。
 彼の実践は、手術が「治す」だけでなく、「意味を与える」時代へと進化することを示している。これは、医療そのものが人間の全体性に触れるための必然的な変化であり、祈りはその変化の中心にある。

第7章 結論─医師が祈ることの社会的・倫理的意義
─祈りは医療の未来であり、人間の尊厳の回復である─
 高橋の実践は、医療の枠を超えた霊的責任の体現であり、科学と霊性の融合ではなく、人間の全体性を回復する倫理的統合行為である。彼の祈りは、手術への挑戦とその限界を受け入れた者だけが到達できる「魂への責任」であり、医師としての最も深い覚悟の表れである。それは、極めて自然なものといっていい。
1. 医師が祈ることの社会的意義
 しかし一方で、医師が祈るという行為は、医療行為の科学的純粋性や社会的責任の明確化、倫理的混乱などの観点から、誤解されることもある。だがそれは、医療の信頼を損なうものではなく、医療の人間性を回復する行為である。実際に、患者や家族からは「救い」を感じたという声も少なくない。祈りは、患者の命に意味を与え、家族の心に安らぎをもたらし、医師自身の魂を癒す。
 高橋のような医師は、医療の公共性を損なうのではなく、医療の霊的公共性─魂の福祉─を創出する存在である。
2. 医師が祈ることの倫理的意義
 祈りは、医療の倫理的完成である。それは、科学的根拠を超えて、命の意味に触れる行為であり、外科医が「治す者」から「共に生きる者」へと変容する瞬間である。
 高橋の祈りは、日本における霊的責任の先駆的実践であり、医療が魂に触れる時代の到来を告げている。
3. 肯定的立場の総括
 本稿は、以下の定義に基づいて高橋幸宏の実践を肯定的に評価した。
 医師と神職を兼ねる行為は、医療が抱える「死・意味・祈り」の欠落を補完する倫理的・文化的実践である。それは非科学ではなく、科学を超えて人間の全体性を回復する“超越的医療倫理”の実践形態である。
 この立場は、祈りを迷信として排除するのではなく、科学的行為に人間的深度を与える補完的行為とみなすものである。高橋の実践は、医学と宗教の融合ではなく、『いのち』の多層性に即したケアの再定義である。
4. 医療の未来へ向けて
 医療は、科学だけでは完成しない。人間は、意味を求める存在であり、命は、治されるだけでなく、祈られるべき存在である。
 今後の医療倫理は、科学的妥当性とスピリチュアルな意味づけの両立を求められるであろう。その時、祈りとは「神に頼ること」ではなく、「命の尊厳を想起する知的行為」として理解されるべきである。祈りは、人間が世界と深く関わるための最も原初的な行為であり、医療の外にある非科学的行為ではなく、医療を人間的に回復させる媒介なのである。
 高橋のような医師は、医療の未来を照らす灯火である。彼の祈りは、手術の限界とその挑戦を受け入れた者だけが到達できる「魂の倫理」であり、医師が祈ることは、医療の未来である。

 

「でも何と言われようとも、外科医はオモロクなければ何も始まらない。Have a nice day」