Doctor Blog

コラム

時間を懐う

 前回、前々回と、かなり解析困難、かつ執拗な文言を並べてしまいました。
 そんな折のことです。10数年前に手術を受けられた患者さん、小生が40歳後半の頃に、器械出しを担当してくれた看護師、そして、長年付き合いのある、他院の古参人工心肺技士、この御三方から、お手紙とメールが届きました。
 しかし、頂いた言葉ひとつ一つに驚きを禁じえません。何とも小っ恥ずかしいのです。実を申しますと、「時間」は少なからずの御神酒下での物書でありました。しかも、“奴”が何やかんやと横槍を入れてきたのであります。要するに、ご指摘のような、それほどまでに深き観照をした訳ではないのです。
 今回、お許しを得て、一部を公開させて頂きます。そして、「ボーっとした時間」での酔漢妄想は、これでお開きといたします。

 

① 拝啓       ……略……。
 この文章を読み進めながら、私は自分自身の時間の使い方や、仕事に向き合う姿勢を改めて見つめ直さざるを得ませんでした。外科医としての時間、神主としての時間、そして教育や祈りの中で生まれる時間、それらは単なる時計の針の進みではなく、命や感情、未来に深く関わる生きた時間であることが、文章の随所から静かに、しかし力強く伝わってまいります。

 ①で示される外科医の時間は、文字通り、命そのものです。
心臓手術において、一分一秒の判断が生死を分ける現実を、髙橋先生は淡々と、しかし緊張感をもって書いています。その緊迫した空気は、私が経験したあの手術室の匂いや光景を思い出させてくれました。時間を追い、追われる感覚、そしてその中で一瞬でも気を抜けば、取り返しのつかない結果を招くという圧力、時間とは単なる効率や作業スピードの問題ではなく、命の重さそのものなのでしょう。一方、神主の時間は、まるで逆のベクトルを持ちます。動くことよりも止まること、与えるよりも受け取ること、そして心を整えることに重きが置かれる。僭越ながら私自身、手術室の緊張から一歩引いた時の静寂を想像することで、初めて、時間を受け取るという感覚を理解したような気がいたしました。
 時間が整うことで命や心が救われる、その質を意識することが、外科医にも神主にも共通する重要な営みなのだと痛感した次第です。

 ②と③で語られる「意識」と「祈りと経験値」では、時間の使い方を個人的な感覚として捉えることの大切さを教えてくれます。
{手術中の、瞬時に決断を迫られる状況での直感や、感情の波を整えるための祈りの力}
 私はこれまで、祈りを宗教的行為や精神世界の話と遠く感じていました。しかし、文章を読み進めるうちに、祈りが心を整理し、感情のノイズを取り除く科学的効果を持つことに納得しました。実際、私自身の手術において、自分が強いプレッシャーの中で冷静さを欠きそうになった時、無意識に深呼吸をして心を整えた経験があります。あれも一種の祈りだったのかもしれないと、今思えば腑に落ちるのです。祈りは決して非科学的なものではなく、間違いなく、命と感情を繋ぐための極めて現実的な行為だと思います。

 ④と⑤では、「教育」と「何もしない時間」の価値が描かれます。
{教える行為は自分の時間を差し出すこと。教わる行為は他人の時間を受け取ること}
手術教育の現場では、技術を教えること以上に、感情、祈りを伴った時間を伝えることが大切であるという指摘は深く胸に響きました。
私は今現在、忙殺される日々の中で、ただ仕事の手順だけに追われ、心の余白を失っているのかもしれません。だからこそ、文中の「ボーッとする時間や妄想時間」の重要性に強く共感するのでしょう。何もせずに過ごす時間が、創造性や感情の整理、仲間の思いを感じ取る力を育む。それは効率化するだけでは得られない、人生における豊かさの源泉だと考えますし、榊原記念病院の小児心臓外科ならではの伝統ではないかと思います。

 そして、⑥の「中今」では、全ての章を貫く核心です。
{命の時間を感覚的に共有し、祈りを通して立ち止まることで、自ら選ぶ時間の重みを知る}
 時間はただの数字ではなく、感情と結びついた“命の器”であるという表現は、言葉以上に深く心に刻まれました。しかし日常の中で、この「中今」を意識することは難しいものです。それでも、一瞬立ち止まり、命や感情と向き合うことの価値を、この項は静かに教えてくれます。

……略 ……

 全体を通して、このコラムは、時間を単なる経過ではなく、命と感情に絡めて描いた深い手術哲学であります。個人的な体験と、医療現場の感情がリアルに思い起こせる描写とが混ざり合うことで、実患者の心にも強く響くものでありました。
{時間の質を意識し、命や感情、祈りと共に生きる}
 文章を読み終えた今、そのことを自身の生活や仕事にどう活かすかを考えずにはいられません。確かに時間とは、単に私たちの手の中で流れ去るものではなく、受け取り、整え、そして次の命や行動に託すことのできるものだと思います。だから、広義の手術時間(手術後遠隔期)としての中今、この文章は、あの時の手術チームからの大切な贈り物だと改めて感じることができるのです。

……略 ……

追伸…今の働き方改革の中で、手術に携わる皆さんの「何もしない時間」に対しては、決して査定や批判の無い、そんな環境であることを心から望みます。そして僭越ながら、いずれ、奴の正体が暴かれることも望みます。

敬具

 

② 前略       ……略……。
 高橋先生のコラムを拝読しました。感想をお伝えします。
 時間、感情、祈り、実に難解なテーマですね。でも不思議と、心に深く重なります。
 まず素晴らしいと感じたことは、時間というものを、戦いだけでなく、祈りと結びつけている点です。そこで先生は、止まる時間、受け取る時間を挙げられます。
 手術は、人間が人間を救う行為です。そこに様々な感情があるのは当然であり、その感情を無視して動いては、本当の意味での良い医療は成り立ちません。手術室で働く私たちは常に動き続けていますが、少なくとも心の中には、感情(祈り)としての止まる瞬間があるべきです。この止まる瞬間については、私の海外での経験上、日本よりも欧米の方がはるかに重視されているとも感じます。
 ご指摘のように、最近の若手には、この感情を整える時間が不足しているように思われます。働き方でむしろ時間が取れず、それでも効率やスピードを求めねばならない現代の医療では、心を整える余裕が失われつつあるのかもしれません。

 そして最も印象的だったのは、何もしない時間の話しです。高橋先生のおっしゃる、必須の無駄には全くの同感です。
 勤務中に「ぼーっとしていい時間」を持つ、確かに日本では、こうした時間を無駄と考える風潮があります。サボっているとも思われそうです。でも、こうした時間があるからこそ、私たちは新しい発想を得たり、仲間の気持ちに気付いたりできるのです。もちろん、これは医療だけじゃないですね。どんな仕事にも、この何もしない時間は必要だと強く感じます。そうですね、このような発想もまた、欧米の方が上かもしれません。

 また、「教えることは祈りである」、この言葉には深く頷きました。
 間違いなく、教えるという行為は、単なる知識の伝達ではありません。こうなって欲しいという願いが込められています。それは祈りです。教育とは、自身の感情(祈り)が染み付いた時間を渡すこと、そして他人のその時間を受け取ること、だから、おっしゃるように、祈りは一方向ではなく、教えることで自分自身もまた成長するのでしょう。この視点だけは、医療職以外の方にもぜひ知って欲しいと思います。改めて、時間を選ぶという言葉の重みを感じて欲しいのです。

 先生の実手術総数は7000例超とのこと。この時間というコラムは、その全てを先生自身がムンテラし、実際に手術し、術後もベッドに張り付く、つまり一貫して患者を診てきたからこその発想でもあるのでしょう。
 「時間は流れるものではなく選ぶもの」、この考えは、手術室でも、日常生活でも同じです。どの時間を選び、どう使うか。それによって、私たちの人生は少しずつ形を変えていくと信じます。私も医療従事者として、そして一人の人間として、動く時間と止まる時間、その両方を意識しながら、これからも祈りの時間を丁寧に扱っていきたいと思います。

……略……。    早々

 

③ 拝啓       ……略……。
 今回のブログの冒頭、髙橋先生は、外科医と神主という二つの立場から、動く時間と止まる時間を語られましたが、実は、そのどちらにも少しずつ足をかけているのが、体外循環技士なのではないか、そう思いながら読み進めた次第です。日々人工心肺装置の前に立つ自分の時間感覚が、静かに揺さぶられる思いです。
 「外科医の時間=効率・短縮」「神主の時間=止まる・受け取る」という対比は、とても分かりやすく、そして耳が痛い指摘でもあります。心臓が止まり、人工心肺に全身の循環が託される瞬間、術野はまさに時間との戦いですが、その中で、ポンプの前の私たちは、手術を受けている子どもの感情を察することも多いのです。流量や圧、ガスを調整しながら、数字としての時間を追いかけつつも、一方では「今、この一分がこの子どもの先の何年につながるのか」を想像し、ただ静かに見守るだけの時間も少なくありません。動く時間と止まる時間が、人工心肺装置の前で複雑に重なっている…、先生の言葉を読みながら、そのことを改めて意識させられました。
 そして、「時間の種類の認識と選択ができていない」、「感情の流れを感じて止まる感覚が足りない」という若手への指摘は、外科医だけでなく、技士にもそのまま当てはまるように思えます。命を救う時間、決断を準備する時間、チームの呼吸を合わせる時間…。先生が挙げられたそれぞれの時間は、モニターの数字には表れませんが、体外循環中に確実に流れている“気配の時間”です。血液ガスの値や灌流指数だけを追っていると見逃してしまう、場の空気や仲間の感情の変化を感じ取る力こそが、本当にデキるチームを作るのだと、胸に刺さりました。
 また、先生が、祈りを“意識と無意識の境界で発動する集中状態”と表現されていたことにも強く共感しました。人工心肺を開始するとき、あるいは離脱の瞬間、私たちは動脈圧の波形や心筋の色、出血量、麻酔科医の一呼吸まで、全てを同時に感じ取りながら、いま流量をどうするか、このまま離脱してよいかを判断します。マニュアルと経験則に従いながらも、最終的には「うまくいって欲しい」という、どこか、祈るような決断に身を委ねる瞬間があります。これは、外科医や看護師とは異なる技士特有の時間です。その感覚を、先生は、共有する祈りとして言葉にしてくださっており、「自分があの時に感じていたのはこれだったのか」と腑に落ちる思いでした。
 教育についても、技士として考えさせられるところがありました。「教えるとは、自分の時間を渡すこと」「教わるとは、他人の時間を受け取ること」という視点は、まさにその通りだと感じます。体外循環の教育も同じですね。どうしても手順と数字に偏りがちになってしまいます。しかし、本当に伝えたいのは、「どのタイミングで迷ったか」「どの場面で怖かったか」「どんな時に祈るような気持ちになったか」といった、感情を伴った時間の記憶です。それを共有できた時、単なる技術の伝承ではなく、命の時間を共に背負う仲間との関係が一段深まるのだと思います。
 それにしても、「何もしない時間」「妄想時間」の話は、読みながら苦笑いしてしまいました。昔のように四六時中病院にいるような働き方は難しくなりましたが、それでも、勤務の中にふっと生まれる、何もしていないように見える時間は確かに存在します。かつて、上級医や先輩技士の背中を、ただぼんやり眺めていた時間、自分ならどうするかを心の中でシミュレーションした時間…、あの一見無駄に見える空白が、後々になって必須の無駄であったと気づく感覚は、先生の世代ほどではないにしても、私自身にも心当たりがあります。今の若手は、その“ぼーっとしていてよい時間”を確保しづらい環境にいるからこそ、意識して守ってあげなければならないのかもしれません。
 さて、「中今(なかいま)を生きる」という言葉で結ばれた最後の部分は、体外循環技士としての自分の在り方を見直す一句でした。命の時間に繋がる今の一分をどう使うのか、その一分に、自分はどんな感情をまとわせているのか…、先生がおっしゃるように、時間には同じ長さでも質の違いがあり、それを選ぶ責任が、チームの一員である私たち一人ひとりに課されているのです。これは、循環呼吸をコントロールする技士にとって、最も重要なことと改めて感じた次第です。
 心臓外科医として走り続けた時間と、神主として立ち止まり祈る時間。その両方を生きている先生が書かれた時間のコラムは、単なる昔話や精神論ではなく、「命の器としての時間」をどう扱うかを静かに問うメッセージだと受け取りました。人工心肺装置の前で過ごす自分の時間もまた、皆の命の時間に繋がっている、その当たり前の事実を再度、胸に刻みます。

……略……。    早々

 

「母校講演、それは55年振り…、“いやはや何とも”な気分でございました。」