意識と無意識の交差〜祈りを伴う時間〜
はじめに
{祈りのチーム 時間を共有する手術のかたち}
特に赤ん坊の心臓手術において、執刀医は、手術チームに対して「こうして欲しい」「こうあるべき」という明確な方針を持つ。これは単なる技術的指示ではなく、時間の使い方の提案である。また、手術前の準備、手術中の無言の連携、手術後の患者・家族への説明――すべての過程において、手術スタッフに「時間を誰かのために使う」ことを意識させる。これは一種、執刀医の祈りと言っていい。
執刀医には卓越した技術だけでなく、チームとの間に時間の哲学を築くことが求められる。
「祈り」とは、宗教的儀式ではなく、周囲からの感情を時間の中で丁寧に扱うという願いである。具体的には、その祈りを伝えるために行動する時間を選ぶことであり、赤ん坊への想い、スタッフへの信頼、家族への配慮というすべての思いが手術の現場で機能する。その時間は、まさに祈りによって「選ばれた時間」であり、集中という共通言語が生まれる。
集中という時間を喩えるなら、それは意識と無意識が交差している状態であり、また個々人が持つ経験と直感が融合する瞬間ともいえる。
従って、手術では、それぞれの感情をチーム全体で共有することが大切である。手術とは孤独な作業ではなく、あたかも祈りのような時間をスタッフとともに選び取る行為である。手術は、技術の集積であると同時に、感情と時間の共有によって成り立つ人間的営みなのである。
本稿では、外科医の医療哲学を、「時間」と「感情(祈り)の共有」の観点から読み解き、特に、チームとの関係性に焦点を当てて、手術における人間的な連携の本質を探る。
Ⅰ章
{集中と時間の交差点 チームで共有する「選ばれた瞬間」}
手術室は、命を預かる究極の場である。執刀医一人の技術だけではなく、チーム全体の集中力と連携が試される。「手術中の集中状態は意識と無意識の交差である」という言葉には、先人たちの手術哲学が凝縮されている。
執刀医にとって、意識とは、手術の手順、患者の状態、チームとの連携といった論理的かつ技術的な要素である。一方、無意識とは、経験に裏打ちされた直感、手の動き、時間の感覚といった身体的かつ感情的な要素である。この両者が交差する瞬間こそが最も深い集中状態であり、命の時間とも言うべき「選ばれた時間」なのであろう。
ただ確かに、時間は誰にでも等しく流れるものではない。
時間とは「選ぶもの、選び取るもの」であり、祈りはその意味ある選択の瞬間に宿る。それは、命に向き合うための“止まるべき瞬間”でもある。
もちろん、この時間は、執刀医個人だけのものではない。手術チーム全員がこの交差点に立つことが求められる。特に体外循環の侵襲や心筋保護液の注入間隔を重んじる小児心臓手術では、手術のリズムを「身体で感じる時間」として捉える感覚が重要である。
執刀医はスタッフが持つべき技術や方針を明確に示すが、それは命令ではなく、個々人が手術の流れをつかむこと、つまり、時間の質と感覚を共有することを目的としている。従って、そこに言葉はあまりない。リズムがあるのみである。
このような集中状態は、まさに祈りである。手術中、チーム全体が互いの感情を読みながら、一つの命に向かって時間を選び、感情を込めて動く。その瞬間、手術室は単なる医療空間ではなく、祈りの場となる。
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『集中は、執刀医が決断する瞬間であり、スタッフが無言でその意図を察知し、動きを合わせる瞬間である。それは個人の技術ではなく、チームの感情と時間の共有によって成立する。手術場としての空間には、技術と感情、意識と無意識、個と集団が交差する「選ばれた時間」が流れる。そして祈りとは、その流れる時間の中で意識的に立ち止まり、感情を込めてその瞬間を選ぶ行為である。そこに手術の本質がある。』
Ⅱ章
{方針と時間設計 “こうあるべき”を当たり前とする医療空間}
手術におけるリーダーシップとは、単に指示を出すことではない。執刀医には、感情の流れの変化と時間の使い方を設計する力が求められる。それは、医療空間の質を当たり前のものとする時間哲学である。
1. 手術前—静寂と準備の時間
手術前は、就寝時に一人息を吐くような静寂を共有することが望ましい。
執刀医は言葉ではなく空気で安心感を伝え、チーム全体が同じリズムで手術に向かうよう導く。この時間は、技術的な準備や確認以上に、感情と意識を整える場であり、手術の質を左右する重要な瞬間である。手術開始直前のタイムアウトの意義は、本来ここにある。祈りが始まる瞬間である。
2. 手術中—選ばれた時間と無言の連携
執刀医は手術中、流れを止めない時間を重視する。
「こうして欲しい」という指示は、手術のリズムを乱さないための配慮であり、また「こうあるべき、当たり前」という叱咤激励は、命に向き合う姿勢を保つため、さらには感情の中にあるリズムを共有するための時間設計である。それらは、無意識下の喜怒哀楽という感情を含め、すべてが執刀医の内面から発せられる祈りである。
しかし、手術中の感情、即ち、祈りは常に動いている。
予期せぬ出血、機器の不調、判断の迷いは、それぞれの感情(祈り)の「錯綜」を生む。結果、祈りの表現である治療の方針や手段は、時にぶつかり、時に重なる。とはいえ、そうした感情の変化を否定する必要はない。むしろ丁寧に選び取るべきである。緊張、不安、焦り、希望などの感情をどう扱うかが、手術人としての在り方を決める。そして、その感情の交差点で立ち止まり、命に向き合う姿勢を共有することが、執刀医固有の、経験という「手術の流れ」を作るのである。
幸いなことに、小児心臓手術には、心筋保護液の注入として約一分間、手を止める時間がある。さまざまな感情と表情が湧き出る時でもあるが、これが手術中のタイムアウトであり、心を整える時間となる。
一方、手術スタッフもまた、自らの役割に没入して、流れに対して無意識になることがある。前述したように、無意識とは経験に裏打ちされた直感であり、時間の感覚が身体化された状態であるが、その無意識の中にも、彼らそれぞれの「祈りの構造」が存在する。この意味において、手術中の執刀医の指示や指導は、スタッフの無意識の中に責任を宿すための設計図と言える。皆がその設計図を身体で理解し、時間の流れの中で自然に動くとき、手術室はさらに大きな祈りの場となる。
即ち、手術における集中とは、個人の技術ではなく、チーム全体で共有される祈りの状態なのである。無言の連携、呼吸の一致、動きの調和――それは命に向き合うための「選ばれた時間」である。
もちろん、以上のことは手術を受ける赤ん坊の意思や感情、親御さんの祈りを十分に察して案じることが大前提である。
そして手術が成功した瞬間、感情は「一致」する。患者の命が繋がったその時、医師、スタッフ、赤ん坊、家族の祈りが形となったことを実感するのである。手術の結果は全員の祈りであり、徐々に肯べることが増えていく。感情の一致こそが、医療の本質を照らすのである。
3. 手術後—感情を伝える時間
手術後は、家族に対して感情を込めて説明を行う。その言葉には、手術中に共有され、消費された感情と時間も重ねられる。
それは、執刀医の責任感だけでなく、手術人全員の祈りの表現でもある。結果として、手術は技術だけではなく、感情を通じて命と魂に触れる人間の営みであるという信念がチームに浸透していくことになる。僭越ながら、「必ず治す」という自信や自我も生まれるのである。
この感情の伝達は、命に触れた時間を言葉に変える行為である。それは、祈りの締めくくりであり、狭義の手術時間は、この感情の伝達によって完成する。
ただし当然、言葉の重みは自覚せねばならない。話が飛ぶが、WHOの緩和医療の定義には、スピリチュアル的知識の必要性も説かれている。我々外科医もまた、あらゆる観点から言葉を学ぶ必要がある。
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『手術の方針は、技術の統制とともに、時間と感情の設計図である。
手術チームが「選ばれた時間」を共有すること、そして新たな時間を選んでいくことで命に向き合う姿勢を整え、医療空間を「祈りの場」へと昇華させる。それが第一義である。
このような価値観は、医療者としての在り方だけでなく、人間としての時間の使い方を問い直すものである。手術における祈りを伴う時間は、命に向き合う者すべてにとっての「時間の選び方」の指針となる。
それにしても、手術の現場には、何と「当たり前とすべきこと」が多いのであろうか。しかし昨今、この当たり前の考え方には大きな乖離があることも事実である。この溝を埋め、改めて当たり前の要点を見直すことが現在のチームに求められることであり、新たな経験を積み重ねるチームになると信じる。先人たちの無意識の祈りまでも懐うことができるのである。』
Ⅲ章
{感情と祈りの関係性 命に向き合う時間の質}
手術の現場では、技術と判断力が重視される一方で、感情の扱い方はしばしば見過ごされがちである。だが逆に、働き方や安全管理が問われる昨今においては、あまりにも敏感に扱われることもある。
手術にあっては、そこに生まれる自然な感情こそが「本来の祈り」である。手術人にとっての祈りとは、単なる儀式ではなく、命に向き合う感情を時間の流れの中で丁寧に扱うことであり、チームの関係性の中に深く根ざすことになる。
1. 感情の察知と共有
手術での「時間を選ぶ」という感覚は、技術や経験とは別の次元にある。「技術よりも時間の流れをつかめ」という言葉は、手術の成功が手技の巧みさだけでなく、命に向き合う感情と、時間の「間」を感じ取る力にかかっていることを示している。
ただし、時間を選ぶ感覚は教えられるものではなく、体験を通じて磨かれる。従って、手術の場にいなければ、その体得は難しい。手術前の静寂、手術中の沈黙、手術後の言葉――それぞれの時間には選ばれるべき瞬間がある。その瞬間を見逃さず、感情を込めて選び取ることが、“手術人”としての成熟である。
また話が飛ぶが、手術での静寂や沈黙は、冷たいようで、実はそうでもない…。そこに居さえすれば、互いに心を荒ませない術が分かり、壁にぶつかりながらも、身を持ち崩さずに前に進むことが出来るようになる。自分が作り上げたという自負心とともに、大人の会話が出来るようになるのである。
極論を言えば、手術人の成長とは、仲間たちの緊張や不安を敏感に察知する力の向上である。この感情の流れを無視せず、むしろ医療の質を高める要素として扱うことが、祈りの実践である。経験の差とは、感情の交差点に立てる力に他ならない。言葉ではなく、無意識のうちに感情を共有する力は、すべての手術人が最も憧れるものである。
2. チーム内の祈りの共有
手術の流れの中で、執刀医が最も重要な手技を行う時、スタッフは執刀医の動きや呼吸から彼の感情を読み取る。無言のうちにスタッフ間で連携し、命に向き合う姿勢を共有する。
しかし実を言えば…、この執刀医を外した時間の共有こそが、祈りの場としての手術室をさらに怪しく成長させる。何故なら、この間、執刀医はいわば没入状態にある。スタッフの感情には触れない。従って、彼らの感情と祈りは自由自在である。このように、スタッフには、手術中に執刀医を意識的に無視できる時間が存在する。それは、恨み辛みを含め、思う存分リセットできる空白の時間であり、最も重要な手術中のタイムアウトである。
一方、執刀医にとっての集中とは、自身が手技に没頭する間、スタッフ一人ひとりがそれぞれの祈りを意識できるよう、敢えて無視することで、彼らとの関係性を深める営みである。経験上、それも確かにチームの経験値を大きく進化させる。それにしても、執刀医は、手術のもう一人の主人公でありながら、少しく寂しい存在である。
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『手術中に流れる感情(祈り)を意識することは、組織的なマインドフルネスやレジリエンスである。それは、皆で一人の思いを慮る行為であり、決して個人的なものではない。より日本的な性質を帯びている。
祈りは届くものであり、決して一方向ではない。感情も時間もそれぞれに振り分けられていく。これがチーム医療の要であり、本来のコミュニケーション、つまり、通常でないことに対応するための力となる。
また、技術は経験に比例するとは限らない。むしろ、感情の扱い方と時間の選び方が技術を凌駕する瞬間がある。経験豊富な医師でも、感情を見失えば、時間を選ぶことができず、逆に若手でも、感情に寄り添えば、選ばれた時間に立ち会うことができる。少なくとも、若手外科医の技術は、チームの感情を意識することで色気を増す。
祈りは、技術の精度ではなく、感情の深度によって成立する。手術中、命に触れる瞬間にどの感情を選ぶのか――恐れか、信頼か、それとも責任か。その選択が手術の質を決定付けるのである。
結局のところ、プロフェッショナルとは、自分の中に何らかの技と専門的な精神を持っている個人、そしてその集団を指す。それがチームカラーであり、成長型マインドセットの継続となる。従って、チームの進化には、技術向上やメンタルトレーニングは当然必須であるが、プロの時間を過ごすことのできる環境が肝要である。古い外科医ほど、手術に対する独自のマインドセットや時間哲学を持つ。皆と過ごした時間が妙に懐かしく思える理由はここにあるのかもしれない。
この観点で、手術教育での「教える・教わる」ことの本質とは、感情を伴う時間の扱い方を如何に上手く与えられるか、受け取れるか、そして共有できるかである。
悔しながら、我々上司が忘れた祈りを思い出させてくれるのは、今現在、眼の前にいる若手の若気の至り的感情であることが多い。確かに、多少ピントのズレた若手の感情に乗っかるのは愉しい。昔の外科医もそう思っていたであろうか。チームが常に機能的で、かつ経験豊富と言われる秘訣は、どうやらそこにもありそうである。
手術において、祈りと時間は不可分である。祈りとは時間の質を高める行為であり、命に向き合う姿勢そのものである。手術チームは、技術を超えて祈りの時間を共有する集団であり、手術室という空間を「命と感情が交差する場」へと昇華させている。
この祈りの構造は、医療者だけでなく、すべての人間にとって、「時間の選び方」が生き方そのものであることを示している。』
Ⅳ章
{祈りと医療の共通項 命に触れる“時間の使い方”}
外科医の祈りとは、宗教的な儀式ではなく、時間の使い方そのものに宿る。
もし手術に哲学があるとすれば、祈りとは「誰かのために時間を選び、そして使うこと」であり、命に触れる行為の中で、最も自然で人間らしい営みと言える。
ただ、この祈りは、仲間たちとの関係性の中でしか行動として具体化されない。手術の流れにおいて、時間を選び取る技術と感情の流れを設計することは、祈りの構造そのものであり、それ故、その場にいなければ決して可視化できないものである。
手術中の祈りは、命の尊厳を想起させる知的行為と言ってもよいし、手術という科学的行為に人間的な深度を与える補完的行為とも言える。少なくともそれは、科学からの逸脱ではなく、科学の限界を自覚するものでもない。もちろん、科学的治療を補完するケアの最終形でもなく、信仰や思想に基づくものでもない。祈りは治療の代替ではなく、治療の延長線上にあるのである。
祈りは科学を否定しない。むしろ手術の内にあって、その意味を探求する姿勢である。手術人は、手術中の感情の変化を、「これが祈りである」と意識することで、そして、手術後にはその祈りの情景を思い浮かべることで、成長が重ねられていくのである。外科学においても、ケアおよび緩和の全体像の回復につながるものと信じる。
生命は尊い。祈りは、それにさらなる意味を持たせる。全人的な治療へ向かう一つの手段であればよい。
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『祈りによって時間を選ぶことは、手術に明らかな痕跡を残す。それは、物語が始まったことを意味し、その物語の中で、また新たな感情が行き交うことになる。
しかし、執刀医にとって、過剰な感情移入は手技の邪魔になる。また、あまりにも頭で動き過ぎ、起承転結を優先して理論を重視すると、前のめりになり、本来の感情(祈り)が見えなくなる。だから執刀医は、時薬が早めに効き過ぎないよう、関わり過ぎぬよう、程々に関わることも肝要である。チーム全員が、賑やかさの中で眠りに落ちるように集中し、何とはなしに皆が得した気分になればいい――それだけの話しである。
ただ一旦関われば、その愉しさからはもう離れられない。それは何故か、ホッとする瞬間である。無論、関わることは少なからず面倒で、心を使うことも多い。しかしそれでも、関わることで心が落ち着く。チームの枝葉一つひとつの動きまでも分かる気がするから、不思議である。
もちろん、関わることは、多少慣れるだけで、少しだけ分別が良くなるに過ぎない。それは、過去の歴史を一部として、再び物語を書く行為に似ている。
だが、繰り返し同じ感情に関わるという、諦めの悪さともいうべき姿勢は、今思えば青春であり、無性に愛おしい。例え、出来心であっても、出会い頭であったとしても、祈りは繰り返すことで研ぎ澄まされる。明らかに、チームの夢は叶うのである。少なくとも、すぐに結果が出るのであれば、あまりに教科書的で面白くない。
祈るということに関して、正しい解はない。結果があるだけである。しかし、その過程には、ささやかな憧憬があり、不思議な温を保った周りの助けがある…。』
おわりに
{時間を選ぶことは、命を選ぶこと}
一つの手術を安全かつ健康的に完遂することは、技術の精度や判断力の高さだけでは語り尽くせない。仲間とともに築く手術空間は、時間の選び方と感情の共有によって成立する「祈りの場」なのである。特に「集中時は意識と無意識が交差する」という感覚は、執刀医個人の内面だけに留まらない。チーム全体が共有すべき、命に向き合う姿勢を示している。
手術における「本来の祈り」とは、感情と時間が交差する場で、周囲への感情を丁寧に扱うことである。誰かのために時間を選び取り、命に触れる瞬間に感情を込めて時間を使う――その結果、手術は単なる医療行為ではなく、祈りのある営みとなる。
従って、手術人は、祈りという感覚を、手術中に少しでも意識することが重要である。それは、ほんの少し立ち止まる時間であり、特に執刀医にとっては、この「間」の感覚が、現実的に時間の質を高め、結果として時間短縮につなげるのである。
もちろん外科医としては(神主としては内緒だが…)、心の中で唱える祈りそのものは簡単には叶わないこと…、重々承知している。
祈りとは、「ああ、これだったのか?」と感じるように、何となく通じた気がするもの、あるいは、他の出来事を経て、何と無しに通じたように思えるものである。だからこそ、昔の蒼い祈りはホンワリとしか思い出せないのであろうか。しかし都合よく解釈すれば、祈りは、直ぐに叶わないからこそ、継続する喜びともなるのであろう。
人間は、自他の境を敢えて認めて生きなければならない。ただ、そこに祈りがあれば、その壁を壊さずとも越えて向こう側を思いやることができる。解がなくとも、敢えて行動を起こすことができるのである。
手術における「時間の選び方」は、命の尊厳を守るための最も根源的な技術であり、その技術は感情の共有と祈りの実践によって完成する。時間を選ぶことは命を選ぶことであり、命を選ぶことは誰かの未来とも繋がっていく――これは医療の枠を超えて、現代に生きる私たち一人ひとりの生き方への問いでもある。
