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コラム

時間

 神主となって早々、ある友人と話しをしました。結構な有名人です(以下、たまに「奴」と略させて頂きます)。内容は、「時間と感情、祈り」について。しかし、正直よく理解できません。完全に思考が破綻してしまいました。
 今回は、これをご紹介しながら話を進めます。そして次回、少しだけ論文調にまとめてみましょう。

① 命の時間

 奴曰く…、
『時間というものを想像するに、外科医にとっての時間は効率とか時間短縮を意味する。特に声の大きい心臓外科医ほど、「時間とは戦いである」とよく口にする。外科医の時間とは、常に動いて与えるものである。一方、神主の時間は祈るためのものである。動くというよりは止まるものであり、与えるというよりはむしろ受け取るもの、心を整えさせるための時間である。
外科医と神主の時間は、けっこう正反対なものと考えていい。』

 うーむ…。確かに小児心臓手術は、一秒とは申しませんが、間違いなく一分の判断が命の分かれ道になることがあります。手術室では、やはり「時間=命」です。
特に、一昔前の体外循環や心筋保護を経験している外科医ならば、なおさらです。昔の外科医は、時間の使い方に対して極めて敏感でした。当時は、困難な手術であればこそ、手術がうまくいけば「時間が命を育てた」と、時間の大切さを実感したのです。
 ただ、人前でそんなことを自慢気に申しますと、相当に疎んじられることもありまして、「手術しか考えきれない可哀想な無趣味人間」「専門馬鹿」と言われたこともあります。四十数年の外科医人生を、なぜか短いと感じてしまうのは、何か大切な時間を無くしてしまったせいとも思えてしまうのです。
 とはいえ、時間に追われるほどに、そして時間を追うほどに、目一杯手術をさせて頂いたことは幸福なことでした。特に赤ん坊の手術では、「命は時間の中で育まれる」ことに間違いはありません。時間の厳しさ、悲しさを誰よりも知るべき仕事です。手術において時間を考えることは、今でも大切なのであります。

 一方、神主の時間はどうでしょう。
 神社に伺うと、空気が変わることをよく経験します。意識がリセットされるというか、やや高濃度の酸素が流れるというか…。神社は「時間の質を変え、整える場所」と言っていい。
神主の時間は、結果を急がない時間です。それは“間という感覚”を大切にすることでもあります。「一旦止まる時間」があって、「待つという感覚」が必要になります。このような時間の使い方は、もともと外科医には縁がなさそうです。

 まあ、でも結局…、
 動く時間にしろ、止まる時間にしろ、外科医は手術によって、神主は祈りによって、赤ん坊に命の時間を授け、未来の時間を手渡す。つまり、命の時間を調節するという点において違いはありません。その意味では、外科医も神主も「時間の質を変える、もしくは整える存在」です。それほど大きな隔たりがあるとは思えません。
あの滅茶苦茶に多忙だった時を思い起こしても、また、あの悲しすぎるほどに薄給だった頃を思い起こしても、動く時間と止まる時間は同じです。いや、むしろ互いに補い合うものでしょう。確かに、そう思います。

② 意識する

 そして奴は、こう続けたのです。
『時間に関して、日本の若手外科医の場合、その使い方、そして使わせ方に疑問がある。
“チーム”の本来の意味は、個々の技を見せ合い、互いに評価し合うことにある。その技量が高いからこそ、チーム医療と言える。そこを勘違いしてはいけない。手術は修行の場でもある。その過ごし方に問題があるのではないか。まずは技量不足を強く感じる。
そして、手術中の空気はけっこう濃密である。手術の流れは、いろいろな感情を伴っている。しかし、そういった感情の流れや変化を感じ取り、場の空気を整えるべく所作を行う――つまり、その時々に交差する感情の時間を把握する力もまた不足している。
それは恐らく、気配りの不足、そして必須の無駄の不足によるものかもしれない。必須の無駄とは、後々に「必須であった」と認識するものであるが、前もって知っておくべきこともある。要は、時間の種類の認識不足であり、時間を選ぶこと、そして選ばれた時間を上手く使うことができていないのである。

 流れる時間には、必ず意味がある。
 それを認識――いや、共有できなければ、元も子もない。
命を救う時間、感情を整える時間、決断を準備する時間、チームと呼吸を合わせる時間など、それらは自然に流れていく当たり前の時間だが、そこには効率だけではなく、“深さ”がある。そこに付随する仲間たちの感情の変化に上手く乗れるかどうか、“デキるチーム”とはそういうものである。要は、間が悪いのだ。
 こういった時間感覚は、ある意味、神主のそれに近いものでもあろう。つまり、無意識であっても、案じて止まるという感覚である。小児心臓手術は、赤ん坊の魂や親御さんの心、仲間たちの気持ちなど――総合的な緩和を大切にすべき学問である。であるならば、少なくとも、手術の流れの中の感情を少しでも意識することが大切と考える。
 とどのつまり、経験を積むということは、技量だけでなく、その時々の自分の感情の変化、そして周囲の感情の変化を、どれだけ多く経験できるかということだ。経験豊富なチームとは、そういうことである。』

 要するに、奴に言わせれば、
「感情の変化を読んで、一旦止まって心を整えること、そしてそれ以前に持つべき、整えようという「祈り」もまた、最近の若手からは感じない…」、というのです。

③ 祈りと経験値

 奴の言う「祈り」とは、手術中に感じる感情の揺らぎ――つまり、“祈るような瞬間”のことだと思います。それは単なる信仰行為ではなく、意識と無意識の境界で発動する「祈りに似た集中状態」です。
 たとえば、心臓手術の最中、執刀医は刻々と変化する循環動態を読み取り、わずかな血圧の低下、心筋の色調の変化、器械出しのリズム、麻酔医の表情など、無数の情報を同時に感じ取ります。そのすべてを処理しながら、「いま何をすべきか」「次に何が起こるか」を判断する。そこには理屈では説明できない“祈り”のような行為があるのです。それは、外科医が命を預かる責任の重さに向き合う時、理性と感情の狭間で生まれる微かな声――つまり、「願い」とも言えるものでしょう。自らを超えて、何かに委ねる瞬間です。
 神主の祈りもまた、似た構造を持ちます。
 人の願いや痛みを受け取り、それを整え、天へと返す行為。その過程には、時間が静かに流れます。「止まる時間」「聴く時間」「受け取る時間」、それらは、外科医の「動く時間」「決断する時間」とは正反対のように見えて、実はどれもが命を整えるための“祈りの時間”に他なりません。

 祈りの深さは経験に比例します。
経験とは、技術の熟練ではなく、どれだけ多くの「心の動き」を自分の中で受け止めることが出来たかということです。そして、それを記憶として残していく。チームが経験を重ねるとはそういうことでしょう。
 手術中の緊張、患者家族の涙、仲間との衝突、それらすべてが「祈りの経験値」となり、やがて一つの“静かな判断”を形作る。その判断こそが、命を救うための「祈りの決断」です。つまり、祈るように決め、祈るように手を動かし、祈るように結果を受け入れる。祈りとは行為でもあり、姿勢であり、経験そのものなのです。
 外科医としての時間を重ね、神主としての時間を持つようになって、ようやく小生はこの二つが交わる地点を見つけた気がします。それは、時間の長短ではなく、どれだけ真剣に「祈る時間」を生きられたか――その一点に尽きるのです。
 確かに昔の手術室では、そこで繰り広げられる感情の是非について、あまりにも“無思考”過ぎた印象があります。しかし今思えば、逆に、先人たちは、“過ぎるくらいに思考”していたとも思えます。それに気付かなかっただけ、学ばなかっただけ…、これは小生の反省です。ある意味、昔の手術人は他人の心に勤勉でした。ああそうか、奴もまた昔の手術人なのでありました。

④ 教える・教わる

 もう少し、祈りについて述べます。
 無論、祈りは、上司と若手の間、そして仲間同士の間にも存在します。
 手術教育(教える・教わる)に関して、その祈りを考えてみると、
「こうなってほしい」「ああなってほしい」、そのために「こうしてほしい」「ああしてほしい」、「こうしようか」「ああしようか」、「いや、こうすべきだ」「ああすべきだ」…、
これらの思いには、多少の我が儘や苛立ちが詰まっていますが、教育というものは、いつも様々な祈りから始まります。従って、教育を“時間”と“感情(祈り)”から考えることには大きな意味があります。
 もちろん、知識や技術は必須です。しかし、教える行為とは、感情を伴った経験という“自分の時間”を渡すこと、そして教わる行為は、その“他人の時間”を受け取ること――そう考えた方が、より建設的かつ効果的です。
 何故なら、そうなれば、祈りは一方向ではなくなり、そこに「責任」と「信頼」という絆が生まれるからです。しかも不思議なことに、教えることで、逆に自分の考えが整理され、より深く理解できるようになります。つまり、“教えることは教えられること”でもあるのです。心理学ではこれを「自己超越的経験」と呼ぶそうですが、教えるとは自分を育てることであり、結局は“自分への投資”です。それは全て、祈りから始まります。

 確かに、「祈って下さい」と願うことは誰にでもあります。そしてもし、本気で自分のために祈ってくれる人がいるのなら、それは何より嬉しいことです。
 神道には「中今(なかいま)を生きる」――つまり、“今を大切に生きる”という言葉があります。それぞれが、自分で納得する時間、相手を納得させる時間を考えてみること、即ち、自分でも他人でも、誰かのために“今、祈ること”が、自分自身の“中今”を生きるために大切なのです。

⑤ 空白の時間

 友人(奴)の言う「時間・感情・祈り」は、やはり理解が難しいものです。
 けれど実際に、今でも若手には“時間”について、しつこく話します。その中で、最も大切な時間は「何もしない時間」です。
 これは、休憩の時間を作ることではありません。もちろん、さぼる時間でもない。単に“ぼーっとしてもいい時間”、「何もしなくていい」と心から思える時間のことです。そしてそれは、休日ではなく、勤務日の中に作るべき時間です。
 勤務中の「何もしない時間」は、一見すれば無駄に見えます。しかし経験上、何故かそういう時間があるからこそ、新しい“ひらめき”が生まれるのです。物理的にも精神的にも、自分の居場所を見つけることが出来ますし、本物の“反面教師”も見えてきます。
 それは言わば“妄想時間”です。
「何もしなくていい時間」では、少し得をしたような気分になります。思い返せば、あの滅茶苦茶に多忙な時代であったからこそ、この時間が何より大切だったのです。
 とはいえ、「ぼーっとしてもいい時間」にも、考えるべきことはあります。何しろ勤務中ですからね。出来れば――“外科医本来の時間”とは何かを考えて欲しい。忙しい時ほど、時間の使い方を少しだけ意識して工夫して欲しい。そして、若手である自分たちには、なぜ責任が少ないのか、なぜ「何もしない時間」があるのか、その意味も考えて欲しいと思います。実はそこに、“若手としての時間”を過ごす最も大きな意義があるのです。
 ところが、現在の働き方では勤務時間に制限があり、むしろ若手には「時間が無い」状況です。実際、「何もしない時間」は、今ではほとんど見られません。だからこそ、奴の言う「時間・感情・祈り」は、ますます理解しづらくなっているのかもしれません。

 そこで、昔話を一つ。
 それは、外科医が下駄を履いていた時代ほど昔ではありませんが――あの頃の先輩たちは、本当に一所懸命でした。そこにいるだけで学びがあり、発見があり、患者を救うアイデアが生まれる。だから四六時中、仕事を愉しんでいたのです。
 我々若手は、そんな彼らをぼんやり眺めているだけですが、それでも自分の中に小さな思いつきが芽生え、仲間の思いにも敏感になり、ときに“ドラマの主人公になったような妄想”すら浮かぶ――それは、外科医の時間が楽しくなっていく瞬間だったと記憶しています。
もちろん、良いことばかりではありません。無駄なことも多かったと思います。
それでも、そんな妄想をすることで、現実的な辛さや嫌悪という感情は確実に減りました。多分ですが…、小生たちの世代は四十歳以降、“その時代のおまけとお釣り”で生きているのかもしれません。
 どうやら「何もしない時間」は、何も奪うことなく、むしろ心の奥底で何かを動かしてくれるようです。無駄になることは滅多にありません――いや、むしろ“無駄を減らす時間”なのかもしれません。それもまた、“必須の無駄”と言えるでしょう。

⑥ 中今

 奴いわく…、
『命を守るチームを育てるには、単に技術ではなく、「命の時間」を共有する感覚が必須である。それは祈りであり、自ら選ぶ時間であり、立ち止まる時間でもある。どれほど経験を積んでも、時間から教わることは尽きない。
赤ん坊、親御さん、仲間たち――すべての感情と動作が、新たに「命とは何か」を教えてくれる。それは、手術人の心の成長に限界がないことの証だ。医学書には載らない “時間の修行”がそこにある。

時間には、確かに質がある。
同じ一分でも、命を救う一分と、命を喜ぶ一分では意味が違う。時間はただの数字ではなく、感情と結びついた“命の器”である。
前述したように、教えるとは、祈りの捉え方を授けること。教わることは、命の時間を受け取ること。その両方が交差する場所には、最も尊い時間が流れる。若手には、そうした“感情を伴う時間”の感覚と意義を、ぜひ伝えなければならない。
そして、誰かに教えるとき、誰かから教わるとき、その時間の中には、先人の祈りもまた重ねられている。教える・教わるという行為は、単に渡して受け取るだけのこと――その繰り返しである。しかし、時間と命が永遠に繋がっていると意識すれば、それはいずれ“恩返し”として、倍返しで自らに戻ってくる。やがて、自分で選んだ結論ではなく、かつ正否や是非でもなく、時間それぞれの意味が分かるようになる。そして、皆とその時間を過ごす愉しさが見えてくる。それは何よりも“人間らしい”、いや、“手術人らしい”時間の使い方である。
「命の時間」に繋げるために、今の時間をどう使うか。そこに付随する感情をどう扱うか。時間というものは、その選び方次第で少しずつ形を変えていく。
その選び方の是非は、今や君たち上司一人ひとりの選択にかかっている。――先人たち以上の悦びがあらんことを望む。』

 少々、頭が痛くなりましたが、それでは次回、もう少し“ややこしく”纏めてみましょう。

「榊原記念病院 低侵襲手術書の中国語版です。」