Doctor Blog

コラム

道中二足の草鞋|24. しつこくも

 謝辞の後ではございますが、もう少しだけ時間がありそうなので少々失礼いたします。
 

しつこくも…①

 ほぼほぼ虚構と言われた拙ブログ、それでもこの5~6年は興の趣くまま十分に遊ばせて頂きました。
 しかしながら、虚構と虚構の中で遊ぶ…、そんなことばかりやっておりますと、微妙に危ない部類の人間のように思われてしまいます。でも小生的には、それほど十分に遊ぶ余裕もなかった訳で、しかも、その都度に余裕を持って反省してきた訳で、「まだマトモか…」と思う次第です。
 

 さて、虚構というものは、小説だけでなく、事実においても存在します。
 ですから日頃、その辺にある現実的思考は容易に虚構たちと交差してしまいます。ビビっと音が聞こえますね。小生の場合もまた、懲りない妄想を作るべく、何度も行き来してきたのです。
 しかしご安心下さい。虚構ってけっこういい奴なんですよ。
 普段は、顔を見せつつも、ある一定の距離を保って平行の道を辿っておりますね。シャイなのです。小生との交差は多分、時の流れのもと、ある角度の時点だけに見つめ合うだけのものかもしれません。ですから、生まれる妄想(嘘or方便)もまた優しいものばかりですね。従って今まで、拙ブログに伴う読者の皆さまへのご迷惑は、99%無かったと信じております…。
 

 そうですね確かに…、そこに虚構があれば、例えそれが怪しくても、心はついワクワクしてしまいます。自由気ままに心が動くのを感じますし、ゆとりが生まれます。結果、ブラブラ遊ぶという本来の意味を遠慮なく確かめることができるのです。
 「遊ぶ」とは、元々神さまの言葉であります。
 神さまに逆らってはいけません。現実とはかなりの距離を保って、真剣にならずに心の底からアソびましょう。
 勿論、それは決して、一つのものを獲得したから何か一つを捨てるということではありません。
 大切なことは、そこからさらに大きな虚構が作れて、もう一遍、遊びたい気分になれるかどうか…、そして、具体的かつ専門的な所作までをも学ぶことでありましょう。要は、他人の虚構から自分ならではの妄想を遊び取れるかどうかです。これは小児心臓手術の大事なコツでもありましたね。今まで何度も申してきたことです。
 今、小生は独自の立場で、遊びという不思議さを改めて愉しんでおります。虚構だけは老熟しないことを望みます。
 

しつこくも…②

 遊んでいて気付いたのですが、小生って「けっこう大人しい」らしいのです。
 そう言えば小さい頃から、何処か遠くで繰り広げられる大人風会話を聞くのが好きだったような…。確かに、声高らかに話すことはそれほど得意でなかったですね。
 しかし思い起こせば7年ほど前のこと…、「心に溜まったことを伝えないのは、何も考えていないことと同じ」、ふと気付いてしまったのです。まあ正直、余程に嫌な奴がいたことも事実だったのですが、案の定、当たり前なことは当たり前に残すべき、そして駄目なものは駄目と言っておかなければダメと思うようになりまして、低侵襲手術書を書いたのです。もう少し遅かったら知らぬ間に、大切なものを無かったことにされるところでした。危ないところでありました。
 

 ただ、そこから学んだことは、さらなる学問の発展というよりは、時とともに、そして齢とともに遊びふざけることであります。心から小心を愉しもうと思いましたね。でもだからこそでございましょうか…、僭越ながら大人の余裕というものが生まれた気がするのです。それは円熟という感覚でして、老熟感でなかったことは誠に幸せなことでした。
 その心の移ろい結果が、拙ブログです。
 それは久々の気分…、何故かめっちゃ良い雰囲気でしたね。旨みが何段階も来る感じといえばいいのか、盆暮れゴールデンウィークが一緒くたに来たような…、いやむしろ一種、清楚な感じでもありまして、「惚れてまうやろ」って感じだったのです。我が愛犬が庭を走る気分がよく分かりましたね。ブログにも色んなジャンルがあって、「これが好きあれが好き」と、つい駆け回ってしまったのです。
 

 とはいえ、ブログって地道です。
 思い込みだけは永遠に続くものでしょうが、それでもけっこう普通なのです。良い悪い含めて、「困ったなあ」ってオジさん、いますよね。「これって絶対にダメなヤツだけど…」って思うことありますよね。まあ要は、そんなザックリした感じです。
 そんなブログから教えられた筆頭人生訓、それは「貧血時には肉を食え」ということ、まさにその通りになりました。この拙ブログには有難うと言うしかないのです。
 それにしても、外科医って飽きやすい生き物です。止めるということを言い続けることもまた、直ぐに飽きてしまうのです…。神主という新キャラが入っても未だにそうですね。ブログ的にはもうそろそろ、変声期なのでありましょう。
 

 さて、今はイマなりでございます。楽しいだけじゃダメですか? そんなところで、また何処かで遊びましょう。
 

しつこくも…③

 誰にっていう訳ではないのですが、そして何処の飲み屋でっていう訳でもないのだけれど、「それ見たことか」と呟きたい気分です。
 自分が正義だと思っても、それが他人にとっては悪になることもある…。
 うーむ、引っくり返らない正義とは何か、まだまだ探索中なのです。外科医の常識と世間の非常識の関係については以前に申しましたが、何しろこんな真っ当な感覚は、今までとんと無かったのであります。
 

 いやはや、相変わらずでございますね。皆さまの眉尻がピクつくのを感じます。
 とはいえ、「それ見たことある」という気分にもなりましてね。小生の周りは今、けっこういい雰囲気なのです。
 思い入れが胸いっぱいにある…、それは、あの時あの定食屋でキングオブ茶碗蒸しを食した感触であると申せば、約数名の友人には分かって頂けることでしょう。ああそうそう、テレビで「おかあさんといっしょ」が流れていましたね。ときに小生は、歌うおにいさんではなく、体操のおにいさんに憧れていたのです。
 

 ただ、自分に嘘は付けません。
 僭越ながら長き外科医人生、小生にもその時々の成長があったのであります。しかし、その過程それぞれの自分は、その時に出会った赤ん坊や親御さんの心に釣り合っていたのか、つまり、上から目線でもいいから、果たしてそこに正義があったのか…。心の反省は成長のどの時期にも、そして今もまた残っているのです。神職となってから、少し活性化している感もありますね。
 うーむ、少々、生き急いだ方がいいか…。
 そうですね、土用の最中に考えることではありませんが、何かを突破せねばならない気分となっております。行ったら行ったで一所懸命になるタイプの小生、全くしつこいことでございますが、もうそろそろ、そしてまたまた、自分をリセットする時節なのでございましょう。
 神職になっての気付き、それは、今まで“無し無し”だったことが結構“アルアル”であったことです…。にしても、外科医としての咽るほどの自意識はもうありません。思い浮かぶのは、チームの二番手として、美意識が十分に充電出来て、そして偶然が段々と減っていったあの現場だけです。また心から遊びまくってみましょう。しかと能動的にね…。心して準備いたします。
 

しつこくも…④

 さて、更にどんどんと、しつこくなってまいりました。まだ時間がありそうです。
 

 「眼は口ほどに物を言う」と申します
 そんなことを筆頭反省としていたあの頃…、肩をすぼめて沈思する自分の姿は、吐息交じりながらも妙に堂に入っておりました。いや、そう信じていたのであります。
 しかし講演においては、「妄想する前に現実をよく見ろ」とか、「お前だけには言われたくない」などと仰る方、そして中には、「やや垂れ下がった双眸が素敵」などと無茶なことを言う適当な方もいらっしゃいまして、右上方への目線、下方への目線とならないよう、つまり眼で付く嘘がバレないように、さらりとした胡乱目線を一点だけに向けながら、眼に沁みるお話しをさせて頂くのです。小生にとっては甘い口のお話しでありますから、皆さまもまた恐らく、甘く感じられるのだろうと思っております。
 

 それにしても小生の講演では、自分で口にしながら訳が分からない、戸を立てないから終いには口が攣る、なんてことがザラでございましてね。口というものは山雷頤、あまり信用してはいけません。ですから、たまには眼を閉じながら、口裏をあわせるように、世間に知られぬように、口をそっと閉じるのであります。その後には、「牡丹餅だけで十分」という気持ちが残るだけですね。
 ところで、眉もまた、口、眼以上に物を言うものらしいです。
 瞳の彩が優しく変わることを知ったのは約一年前でしたが、眉に付随する、唾、寄、愁、不動、集、曇、読などの意味がそれほど違わないと知ったのはつい最近のこと…、眼と口を閉じて現実を遮断していたところ、眉の不思議な力をふと感じてしまったのであります。しかしごく直近、「眼を閉じれば眉の表情は見えないのではないか」、という現実的すぎるご指摘があったのも事実でございまして、ついグッと、眉を顰めてしまったのでありました。
 それにしても、眉の表情だけは如何ともし難いものです。でも、眉で和ませるという必殺技は是非ものにしたいものです。ああそういえば、小生の故郷には、「眉を整えてあげる」という奇特な美容師の方がいらっしゃいましてね。今度、伺う予定です。「物言わぬ眉」の意味もまた、感じてみたいと思います。
 

 さて今まで、小生のブログには、自らの目線、眉線をなるべく置かないようにしておりました。もちろん、視聴者の皆さんの目線、眉線もまた、なるべく見ないようにしておりました。口弁慶と思われるかもしれませんが、確かに小心の語り部にとっては実に相応しいものだったと思います。
 ですから、今までのブログに関しては否定も肯定もいたしません…。
 まあそうですね、今後そわそわと見守っていさえすれば、いつの日か、何らかの答えが小生の頭の片隅を通り過ぎることもありましょう。そしてそれは、心をそっとなぞってくれるのでありましょう。多少は口惜しい気もいたしますが…、小生はまだまだ能動的に遊ぶつもりなのでございます。大人の階段中途です。
 

しつこくも…⑤

 完全に高齢者の仲間に入ろうとしている今、そして神主となった今、自分的には90%ディスカウントOKという気分です。
 その中今に懐うことですが…、果たして小生は、自分に対して本当に真摯に向き合うことが出来ていたのか? また一方で、真摯に他人を慮ることが出来ていたのか? 今までの自分は、優越やマウント感だけで仕事を続けてきただけではないのか? またまた、そう反省してしまったのであります。
 

 確かに外科医時代、心はそれ程に一所懸命であったとも思えません。かと言って、それ程に周りを気にする小心者であったとも思えません…。しかし、大抵の大人であればとっくに乗り越えているであろう甘い懐いを、今も後生大事に手放せずにいることは事実でして、「またもや、バカの方向性が変わっただけ」、またまたそう言われているのです。
 ただエクスキューズしますと、懲りないバカの今の懐いは、例え方向が変わっても、今の時期でもあるべきことなのでありましょう。その内容もまた、今のこの時期だからこそやるべきことなのでしょう。つまり、何度同じ懐いになろうとも、この今という時期には未来へと向かう「今だけ個々の光」がきちんと詰まっているのです。ある意味宝物でもありますね。だから毎回々々、これまた懲りずに、今だけの季節の登場人物として生きていかなければならないと誓ってしまうのです。後先は考えず…。
 それでも今回は初めて、その覚悟にほんの少しだけ、新たな輪郭が見え始めたようでございます。やや高めのIQが必要な気もいたしますが、それでも、飯でも食うかというような軽いお誘いにも思えて、………、
 「うん?  あらら、ラインが来た…」
 

ご連絡…さてさて突然ではございますが、ここまで書いてようやっと、毎日新聞社から小生の記事掲載日決定の一報が来ました。この最終ブログは、新聞掲載直後にオンエアするとお約束していたのです。…それでは皆さま、ごきげんよう。
 
追伸…ところで、ここ数ヶ月のブログの空白期間、その理由につきましては今少しの間、内緒のお話とさせて頂きます。心の整理がつき次第、ブログ閉鎖の訳も含めて、改めてお話する機会もございましょう。