Doctor Blog

コラム

道中二足の草鞋|16. 演技

 「こんナン書いていては、右脳は働かない…」、またも、そう気付いてしまいました。
 そして続けて、「俺って、意外と戦っていない…」、いつも通り、そう反省しました。
 でも今回は我慢しました。空トボケるだけに留めることが出来たのです。
 それにしても今日此の頃、自分を誤魔化すことが得意になりましたね。もちろん多少の演技はしております…。すべては気まぐれな性分ゆえのことでありましょう。
 

 ところで、半年後に古希がやってきます。
 今、70の小生を想像しております。中高年から「中」の文字が抜ける絵柄が浮かびます。69前の反省たちも浮かびます。
 …が、はて…? 
 何故か「月9関連」だけに、とても大きな空白と「?マーク」が残っているのです。
 うーむ、やはりそうか…。そのお陰でしょうね。小生の心はその後も“続続”と仮想世界を巡り、今や大人の域にあると信じます。ある意味、素晴らしき視聴者だったのでありましょう。
 

 しかし、それらの関連たちは、今もそうなのですが、続き柄以上の役柄へと小生を誘惑しようとします。
 ですからつい、余計に手を出さない訳にはいかなくなって…、つい、遠慮なく受け合ってしまうこともあって…、こだわりという感情を伴いながらも、実に子どもっぽい演技を繰り返してしまうのでありました。要は、大人になっていないということであります。
 とはいえ、遅めにしか大人に成り切れない連中ってやはりいるのです。いや、とても多いのです。やっとこさ大人になるというような…。
 でもそんな輩に限って、「演技とは、自身に課せられた致し方ない大切な役目」とでも思っているようでして、それだけに素直というかセンシティブというか、改めてその不思議さを感じてしまいます。まあ要は、ええカッコしいなのであります…。
 そうです。こんなところもまた、40数年の外科医生活、小生の反省の一つでございましょう。
 

 さて、話しが飛びます。
「事実は小説より奇なり」という言葉があります。
 しかし昨今、事実の中の奇なり事の少なさに驚きます。昔ほど感じ取れないのです。
 もちろん、年食ったせいでもあるのでしょうが、奇なり事があまりにも当たり前すぎるのか? 何だか、他人と同伴しているような妙な気分ともなりましてね。感動できないのです。
 一方、小説も同じです。
 これまた奇なり事があまりにも当たり前すぎるのか、それとも、失敗とか成功とか、幼い現実をあまりにも簡単に小説の中へと持ち込もうとするせいなのか…。別にウケ狙いという訳でもないのでしょうけれども、それにしても感じませんね。妄想させる力を書いているというか…。
 今はもう全てにおいて、事実と小説の奇なりの順番は、その質も含め、入り乱れているように思えてしまいます。
 

 さらに話しが飛びます。
 「人と同じことをやっては勝てません」…。昨日も何処かで、誰かがそう言っていました。
 このお言葉の解釈、かなり難解になっていると思うのですが、それでも聞く頻度が増えました。多少の危機感はあるのでしょう。ただこの齢になりますと、「勝つ意味って何だろう」って思います。そして、この働き方時代、「人と異なることって何…?」って考えてしまいます。
 

 さて、今思えばという条件のもとではございますが、事実でも小説でも、奇なり事が多くある時代って幸せだったと思うのですが、如何なものでしょう。この時代だからこそ、事実の中に小説以上の奇なりを見つけるべきですし、小説の中にもまた、事実以上の奇なりが当たり前にあって欲しいと願います。
 大切なことは、やはり、マジに泣くほどの感動を如何に経験できるかでありましょう。そして考えるのです。
 そうすると頭の中には演技できそうな自分の脚本が生まれます。それは明らかに他人とは異なるものですね。人に勝てる可能性も十分に有します。つまり、そこから大人の演技が始まるということであります。
 だから、時を削って、身を削って、必死こいて頑張る必要はないのです。そこにいて、そして感じるだけのことです。
 ところがこれまた昨今…、ご存知のように、これが中々、いや甚だ難しいのです。
 

 肝心なことは、奇なりの独自性、つまり眼に見える所作やその技術を獲得することではありません。そこに登場する人の「心の奇なり」をどう感じるかです。所作に並行する心の奇なり事に注目すべきなのです。その本質は人間の感情ですね。その奇なりに心惹かれれば、勝った負けたには決してない、ゆるりとした考えもまた出てくるのです。
 もちろん、それは虚構であっても構いません。虚構を利用して、虚構の中で遊び、それを自分の演技として消化すればいいのです…。そこから得られる泣き笑いは、事実よりも小説よりもさらに奇なりになると信じます。早めに大人に成り切れない連中にとっては、職種を問わず、とても大切なことと思うのですが、これまた如何なものでしょう。
 

 さて、ようやく小生は折角の機会を頂きました。それは古希と神職です。そろそろ一つの段階としてケジメをつけねばなりません。
 そうですね、今後、神職として感じる奇なりがあれば、そして演じることができれば、四捨五入のない古希decade(70s)が愉しめるのではないかと思えるのです。それは何だか、古希からの慰藉のようでもあります。
 奇なりだけは、このまま、外科医の奇なりだけで終わらせる訳にはいかないのです。
 

お知らせ…このブログ執筆直後に、「月9、演技、奇なり、そして神職へと至る、妙な思考の流れだけは、どうにかならんものか…。実にしょうもない。お前は本当に古希を迎えるのか…」、そんなご意見を上の方々から頂きました。確かに仰るとおりです。でも大きなお世話です。ただ、早めに大人になることだけは固くお誓い申し上げます。

「不肖、呉服屋の元四代目は、何でも着こなすタイプなんです…。
座右の銘はナチュラルです」