Doctor Blog

コラム

道中二足の草鞋|15. 健康

 もともと日本人には、「誰それのために生きる」という、即ち同調とも言える心遣いがあります。出来るかどうかは別として、そう努力をするのです。
 そして一方では、自分はこうあるべきとして、自分の生き方や役割に拘束性を持たせようとします。出来るかどうかは別として、これまた努力をするのです。
 これらは、自身に課した義務ですね。人間として本質的なものであります。
 しかし当然、あまりに意識が強すぎると自律性が薄まってしまいます。お節介とも言われそうです。しかも皆が皆、大人として大人の態度を取れるかというと、それは疑問です。
 

 ところで、…はて? 
「出来ないかもしれないが、何とかしよか」という気持ち…、義務という言葉は使わずとも、そのように心の底から思える意味って一体何なのでしょう。一度くらい、今の内に考えてもいいかもしれません。
 ということで突然ですが、「健康について」と題した講演の読み原稿を示します。
 

 皆さま、こんにちわ。本日は健康について試験を申します。
 健康という事象をどう捉えるか、つまり、主観的基準である健康観は人それぞれであります。また当然、その判断は人的、社会的に変化します。
 一般的に、健康保全でよく言われることは、まずは検診、次に生活習慣の改善、特に運動、食事、趣味の大切さでしょうか。
 小生もまた、古希手前でありますし、それなりの健康維持を心掛けているつもりです。
 ただその詳細となりますと、「これしちゃ駄目、あれしちゃ駄目」、面倒くさいことばかりでして、こちら側の人間としても、何とも耳が痛いのです。「でけへんかもしれへん。でも何とかしよか」と、今まで何度、振り返ったことか…。
 しかし、今は神職という身分でもあります。人的にも社会的にも甦っているつもりですので、本日は健康について、外科医&神主という立場でお話させて頂きます。
 

まずは、つい最近、健康に良くないと思った事柄を三つほど…。
① 何処かで申しましたが、「小生は神主です」と申しますと、近隣の皆さんはとても朗らかな笑顔となるのであります。中には手を合わせる方もいらっしゃいます。つまり、モテるのです。厄落としでもしてあげようか、そういう気分になります。
 一方で、「まだ外科医をやっています」と言うと、何故か皆さん、片方の眉が少しピクつきます。ため息とともに、隣の人と頷き合う仕草もあることでしてね。そこで会話が一旦途切れます。
 少しく哀しい気分ともなりましてね…。何とも、微妙に健康に良くありません。
② 当然のことですが、運動や趣味はやり過ぎてはいけません。怪我もあり得ます。
 健康は修行ではありません。他人と比較することでもない、戦うことでもない…、勝ち負けではないのです。
 病院の職員健康診断では未だに、自分のデータを自慢する輩がおります。一方、外科医は不健康な生活を送りがち、データは概ね完敗です。反省とともに3日ほど落ち込んでしまいます。何であれ、負けたという気持ちは健康に良くありません。少なくとも、隣の人の健診データを覗き見るような健康に悪いことをしてはいけません。
③ 日本の平均健康年齢(平均寿命)は、男性がおおよそ72歳(81歳)、女性は75歳(87歳)であります。
 こういう話しをしますと、小生の親戚の中には、「勝った!」とガッツポーズする輩がおりましてね。毎年の恒例行事です。気持ちは分かりますが、そのような健康に悪い態度を取ってはなりません。神さまが最も嫌うことです。
 

 健康に関しては、知識だけでなく、そのための正しい方策を持つことが大切です。
 しかし、あまりにも正確すぎて具体的すぎますと、逆に妙な心配事が増えてしまいます。これも健康には良くありません。特に標準偏差を有する数字には注意が必要です。
 ですから、我々医療者にとって大切なことは、知識ではなくて、健康を考えるための、そして健康になるための、素材と知恵を持たせることと考えます。もちろん、その時の嘘、いや、方便には少しの工夫が必須です。
 

 話が飛びます。運命についてお話します。
 これも何度もお話ししていますが、運命は、奇跡的もしくは偶然的なことが起こる…、そういう時に「これは運命だ」と感じるものです。それこそ人それぞれです。
 外科医的には三つほど思うことがあります。
① 何事もなく今日一日を平穏無事に過ごすことができた、これは運命と言っていいのでしょう。
 もしかしたら、偶然にも危険を回避したのかもしれません。でも当の本人は感じていない。見守られた運命とも言えます。
② 例えどんなに嫌な仕事であっても、「お前がやりなさい」と言われて、やり続けなければならないことがあります。でも我慢して続けていたら、いつの間にか、それが自身のライフワークとなって褒められることもあるのです。その仕事は運命と言えます。
③ 人間は、お互いの人生にも多少の影響と責任を任された存在です。この世に生きる意味はそこにもあります。出会いという「繋がり」の中には、お互いが心地良いと思うことのできる緩和作用があるのでしょう。その幾つかは、大きなお世話的にさらに繋がろうとします。結果、後々考えてみると、あの時のあの人は運命の人と信じることも出来るでしょう。
 

 こうやって考えますと、運命はどこにでも転がっています。下手すると作ることも出来そうです。それは人との繋がりです。皆さんと私がこの会場で向かい合って話している、これもまた運命と言えますね。
 ただ、男性ほど運命的に弱い存在はないようです。
 女性と偶然出会って、「これは運命だ、神さまのお導きだ」などと大騒ぎしてしまう。しかし、そういう運命は、お約束的結末として、遥か彼方のお空へ消え去ることが殆どかと…。にもかかわらず、「この世には神も仏も運命も無いのか」と叫びながら、また同じ妄想恋愛の時空へと身をあずけてしまう、そして何度も奇跡というものに仄かな期待を寄せてしまう…、どうやら野郎ほど運命に懲りない生き物はいないようです。
 

 さて、そう考えますと、
 普通、人間は当たり前にあることを運命とは考えません。しかし実際には、何気なく貰っている運命もあるのでしょう。あの人と喋ると元気になる、力が貰える、笑いが増える…、これらは、健康という運命を繋がることで貰っているということです。その地域社会、集団までもが健康になるのです。
 旅をして、その土地の人と話してみて、「この街は素晴らしい」と思えるのは、そういった繋がる運命が根付いているからだと思います。そういう所では、人が集団で生きるための知恵も生きていますね。決まり事も人が楽になるためのものばかりです。当たり前に扱うべきことが、当たり前にあるという印象を持ちます。
 ああそうか、それは文化ですね。文化だからこそ心の安らぎがあり、他者が見れば威厳を感じるのでしょう。そして、そこに住む人たちはその文化に好かれるから、繰り返しイカした新たな文化を作れるのでしょう。それが文化度の高い集団です。
 健康を考える際には、お互いの繋がりで生まれる健康があることを忘れてはいません。それは相手を察して案じる気持ちです。要は「ご縁」というものを如何に大事にできるかどうかであります。結果このことは、自分の健康にも跳ね返ってくる訳です。
 

 ただ、繋がりには、赦すという気持ちが大切です。
「まあいいじゃないか、そういうこともあるよ、今回は許す、大目にみる」という、ある意味、いい加減、適当とも言える気持ちです。それが無ければ健康は保てません。つまり、一旦、脇道に逸れるのです。
 これが庶民的倫理風の健康です。
 決して正しいことではないけれど、本当は駄目だけど、心が救われるだけでなく何か大切なものが生まれるかも…、それは、集団としてやや早めの勉強が出来るということでもあります。そうすると地域はさらに健康になるのです。
 

 加えて当然、休むということも大切です。
 ここだけの話ですが…、休むことに疲れて、むしろ気持ちの安らぎが得られない、結果、外科医としての醍醐味を味わえない…、これって実は我々の今の状況なんです。休んで得したって思えなければ元も子もありません。
 休むってことは強制ではありません。真面目に休んではいけない時もあるのです。休みに集中しないことも大切かと思います。だから休みなんです。
 話しが逸れましたが、赦しの気持ちを持つこと、ゆるりという休みの本質を知ること、健康には大事なことと考えます。
 

 私ども赤ん坊の手術をする外科医は、常に、いのちやその繋がりについて考えさせられます。不思議なことも沢山ありましてね。色んな答えを求めなければなりません。
 特に手術を受ける子どもの幸せとは何か、母親の幸せとは何か、仲間たちの目指す幸せとは何か…、普通ではないことを解決するのではなく、ただただ平和になるための手段を考えるのです。
 医療というものは全てにおいて、そこに繋がる“何か”があるから上手く機能すると信じます。その何かは人でも物でも考え方でも、すべて平等に優しく繋がるのです。
 もちろん、普段は何の関わりも無さそうに見えるかもしれません。でもその何かは必ず、子どもたち、親御さん、そして医療者の心を緩和します。
 これが、赤ん坊だけでなく、手術に関わる全ての人の健康です。これが無い限り、赤ん坊の手術は成り立ちません。
 

 話しが飛びましたが、健康とは、人のために、地域、集団のために何をすべきか、何ができるのか、その繋がりから得られるものです。何度も申しますが、それは自分にも向いてくれます。もし、健康にコツというものがあるとすれば、このことが最も大切なコツと考えます。
 ですから、隣の人の健康診断のデータを覗きみるなんて、そんなことをしてはいけません。
 以上が、今現在、外科医&神職という中途半端な立場で思う健康です。ご清聴有難うございました。
 

 さて、今後も変わらずに、手術を受ける子どもたち、親御さんの力になればと願います。もちろん、手術に携わる後輩外科医の心の健康も同様です。
 今の小生…、新たな立場で少し変化のある対応が出来るのではないか、そう考えるのですが如何なものでしょう。何かを届けるのではなく、むしろ何かを残すという感じを大切にするつもりです。

『 今、外科医人生のダメ出しをやっております。
 とはいえ、医療というものを医療以外の観点で見直すことは大変に難しいことですね。ましてや今後の予測なんて、とても出来やしません。それは、数多く自己逃避してきたせいなのか、それとも周りの仲間たちからの気遣いのせいか…。
 もっとも、そう努力することは、良いか悪いかは別として、少なくとも今の自分への慰めになります。幸いなことに、ガッカリするような意地悪な感情は生まれませんしね。悪い懐いは、もはや何処かに押し込まれているのでしょう…。いやいや、まだ安心はできません。
 ただ、その見直しには、かなり膨大な言葉の処理が必要なようです。
 特に、その時々のこと、そこにいる人間のこと、そして、後には続きそうもない思想に関してはまさにそうですね。生半可な言葉では語り尽くせない反省が多々あるのでございます。

 分かりにくくて申し訳ありませんが、その反省の要因は、どうやら、「専門性」という言葉の理解不足にあったのではないかと考えます。
 何しろ医師というものは、早く大人になるための訓練を受けませんからね。憧れるという経験を思うほどに積めていないのです。確かにあの当時、同年齢の他職種の輩との間にはかなりの差がありました。つまり小生は専門資格を持ちながらも、専門性に関しては、その技術もその心も全く無かったのであります。
 その大本の要因は、まずは妄想時間の不足でしょう。それは確かです。良い話しが多いだけに妙な満足感だけが大きくなってしまいましてね。我々医療者にあるべき「ご縁」を大事に育てる時間もまた足りなかったのかもしれません。
 しかしそれでも、あの当時に仲間たちと作り上げてきた専門性、その中にはかなり斬新なこともありました。褒められもしました。それらの生みの痛みをこの中今で懐うことは、誠に幸せなことだと思います。もちろん書くべくもありません。しかしその痛みは、飴玉をしゃぶっていた研修期の供養のような気もしますし、あの昭和晩期の小生自身への感謝の手紙とも言えそうです。

 さて、もう暫くは、心の中の外科医の記憶と相対することにいたしましょう。
 今回、オチはありません。でも気分はアゲアゲです…。 』