道中二足の草鞋|12. 7000人の小さな命を救って
人間の成長という面では多分に心配な小生でございますが、中高生の講演では思う以上に響いてくれるようであります。…。以下、神職となった後に書いた原稿を示します。
心臓病胎児の「いのち」という観点から、今現在、思うところを述べます。
長年、赤ん坊の手術をしていますと、どうしても、命、そしてその繋がりについて色々と考えてしまいます。そして大変に不思議なことも経験するのです。
その中でも確かと思えることが二つ、その一つは胎内記憶です。これはどうやらありそうです。もう一つは、赤ん坊は生まれたばかりでも我々と目を合わせて喋ります。いや、正確には喋ろうとします。ですから否応なく赤ん坊の意思を感じます。「治してくれると聞いたからここに来た」、「そうでなければ、お前の存在意義って無いんだ」、そんな声も聞こえてきそうです。もちろん、赤ん坊のそういった意思は、親御さんに対しても、また今のこの社会に対しても同じでありましょう。
赤ん坊の眼を通して、私どもは改めて自身の役目を痛感するのです。
『命』について
命という言葉には三つの意味があります。
まずは命(いのち)です。具体的に一つの生命の存在を示します。時に儚いし、尊いし、人の死や命の大切さ、人生の刹那を考えるきっかけになります。
一方で「いのち」があります。これは生きるための知恵であり、他人との関係性、つながりや循環というものから自分の位置が理解できます。誰かのために行動する基盤です。
そして命(めい)です。これは果たすべき使命、天からの命令と言ってもいいでしょう。先に申した役目であります。
このように命という言葉は表現とその意味を変えて存在します。これは日本の文化です。赤ん坊を診ていますと、そんなことを再認識するのです。
現実的に私の周りには、昨今の中絶の現状では生まれ得なかったであろう、沢山の子どもたちがおります。多くは既に成人していますが、最も嬉しいことは、その手術した子どもたちに子どもが授かるということです。
手術を受けた赤ん坊の母親が、自分の命(めい)を持って、かつ命(いのち)をかけて、その赤ん坊を産みます。そして父親は、その「いのち」を育み守ります。もちろん、試練は沢山あります。しかし今、あの時の赤ん坊には子どもが授かり、そして多分、孫が生まれます。あの時の赤ん坊は、自分の子どもや孫を通じて、本来は出会うことの無かった人たちとも繋がっていけるのでしょう。それぞれの命(めい)とともに「いのち」もまた伝わっていくのです。まさに運命を思います。
それが「繋がる運命」です。
人間は互いの人生にも多少の影響と責任を任された存在、恐らくその繋がりにはお互いが心地良いと感じることのできる緩和的作用があるのでしょう。だから、さらに繋がります。つまり、実にラッキーなことに、繋がる運命は私たちが作ることができるのです。今現在、私はそんな彼らの人生を現在進行形で見ることができます。誠に冥利なことです。
しかし外科医は、そんなことを沢山経験しますと、つい調子に乗ってしまいます。
この赤ん坊は治る運命にある、だから病気をやっつけようとは思わない、手術させて頂く、神さまの言うとおり…、特に眼を合わせた赤ん坊には少しだけ依怙贔屓してしまいます。心臓を治すとともに、ついでに3本ほど植毛しておこうと思うのです。それは、今から経験するであろう試練を楽々と越えるようにとの祈りでもあるのですが、そうですね…、これこそが外科医の腕の見せ所です。他の外科医には絶対に負けないという意思表示でもあります。
ところで命(めい)、即ち、それぞれの役目には、それぞれが具体的に積むことのできる「徳」があります。その徳を重ねることで初めて、それを役目と言うことができます。そして、それぞれの職業に「専門性」が生まれます。僭越ですが私の場合、赤ん坊の訴える眼に対して、そして社会に対して、外科医としての命(めい)を果たすことが徳となり、その専門性は進化するはず…でしょうが、果たして、今まで付き合ってきた赤ん坊は納得してくれているのでしょうか。
『専門性』について
専門性という言葉は、職業の特殊性、つまり、それぞれに固有の技術や知識を示すだけではありません。職人気質というと完全に俗っぽくなりますが、他者との関わりで大切にすべき生き方、そのための知恵とでも言いますか、いやむしろ、さらに徳を積むことが許される条件と言ったら良いのか…、そういった人間ならではの心の進化を示します。要するにそれは、それぞれの命(めい)を自覚することであります。ですから、あらゆる職業において、技術や知識という専門性は当然異なりますが、この人間としての心の専門性は皆同じであるべきです。
その専門性において、医療は皆さんの幸福の為にあります。幸福にならなければ、それは進歩ではありません。
ただ、医学は時に本来の道を踏み外しがちです。未だ、何でも自由、何でも平等、個々の権利の尊重ばかりが目に付いてしまいます。今はもう専門と言えば、単に特別という概念に過ぎません。これがそうだと教えられて皆がそう言っているだけに思えます。医学は近似値として科学です。でも結局、その本来の専門性を進化させるものは、最も高い意味での人間の感情です。それは漢気と言っていいかもしれません。
大切なことは、そこに美意識があるかどうかです。生命を何にもまして尊ぶ心、正しいものは正しいと思える心、これらは本質的なものとして人間だけに与えられているものでしょう。加えて、そこに神とか、魂とか霊性とか、神秘的存在を思うこともまた、人が人である証拠であります。ですから医療を問わず、特にこの人間的な専門性に関しては、私ども一人一人がその考え方だけでも多少は哲学的、いや、少しでも小難しく考えることをしない限り、その進化は難しいのではないかと考えます。
『緩和』について
電車の優先席での出来事です。
おそらく新一年生でしょうか、ランドセルを背負った男の子とその父親が窓に貼ってあるステッカーを指さしながら話をしています。ご年配、体の不自由な方、妊娠している方などと、優先席の説明が漏れ聞こえてきます。
そこでその男の子が一言、「じゃあパパ、ここには妊娠させた人も座っていいのか」と尋ねるのです。
周りの方々は苦笑していましたけど、どうやら母親に対する父親の役割を話しているようでして、つい聞き入ってしまいました。と申しますのも、私どもの病院では、心臓病胎児の妊娠継続の意思決定には「父親の命への考え方、向き合い方が極めて大切である」、そういう結論を得ていたものですから、つい考えさせられた次第です。
しかし残念ではありますが、この二年ほど、心臓病胎児の中絶はさらに増加しているのが実情です。いくつか思うところをお話しいたします。
親御さんたちには大変失礼ではありますが、産む、産まないという選択において、もう少しだけ前もって知っておくこと、考えておくべきことがあるのではないかと思います。
例えば、生命に関すること、特に生命の誕生はいつかという科学的知識、そして、それに伴う哲学的、宗教的、法律的な考え方、ひいては、スピリティズム、特に輪廻や霊性に関する考え、また、もっと根本的には、日本人として当たり前にあるべき、人間の専門性という意味での庶民的な倫理感や道徳感であります。少なくともこれらに関して、どのような意見があるのか、議論があるのか、そして歴史があるのか、多少嗜んでおけば、何かが少し変わるのではないかといつも思います。ですから、先ほど小難しく考えるべきと申しましたが、前もって知る機会、考える機会、それができる環境を持つことは大切と考えます。
ところで最近、医学生や若手医師だけでなく、中高生や医療職以外の方々へお話する機会を頂きます。その際、初めてお会いする方々には、年齢に関係なく敢えて全く同じことを喋ります。内容は「いのちと緩和」であります。
ですから、中学生には少し早すぎる、無理があるとよく言われます。しかし、自分も同じ考えだと直ぐに頷くような、もしくは、やっぱりあなたもそうかと直ぐに納得するような、そのようなお話しでは如何なものかと思うのです。出来れば、後々も考え続けてくれることを期待したいですね。教育とは情報を与えるのではなく、知恵を根付かせるための素材や出来事を与えることと考えます。ですからこちらも小難しくいくのです。じゃあどうするか。講演に参加された先生たち、もしくは親御さんたちに向かって話します。つまり、一番の責任者を狙い撃ちするのです。もちろん、講演前には少々ネゴシエートしておきます。そうしますと講演後は、先生方、生徒さん、親御さんたちは、その内容で盛り上がるらしく、中には極めて生意気な意見を言う生徒も出てくるとのこと、昔で言えば若衆宿みたいな雰囲気ですね。
いずれにしても、上手いこと鍵だけ渡すことができれば、小難しいことは、いずれ易しくなっていきます。分かったようで分からない、そこまでいけばまずはOKとしましょう。人間にあるべき専門性に関しては、少なくとも、緩和的に味気ない環境となる罪だけは犯してはいけません。少しだけでも専門性を持つことができれば、今後何かがあった時に、何か一つだけでも自分が緩和されるかもしれません。そして一つだけでも誰かを助けることができるかもしれません。それは、心なし早めに大人になるということです。自然と横に繋がって、縦に繋がるのです。
一方、現実的に大切なのは、何をおいても母親への緩和です。産むにしろ、産まないにしろ、どちらも大変長く心労が重なります。
理想を申せば、というか、これは私の願いですが、とにかくまずは自分を否定しない、そして、自分が幸せになることを恐れないようにして貰いたいと思います。出来れば、次の妊娠に希望をもって頂きたい。
しかし緩和というものは、知識や経験を持てば、皆同じ緩和の効果が得られるとは限りません。緩和の仕方に初級編とか上級編なんてものはないのです。医療側の未熟さをいつも思います。
でもそれでも、親御さんからお礼の言葉を頂くことがあります。ここにいたから傷だらけにならなくて済んだ、何やかんや付き合って貰って幾分かは心を薄めて貰った。中には、血縁以上のものを感じる、等々。
そう言って頂いた時、我々の現場に何があったのか、何がそうさせたのかと後々考えてみるのですが、共通することは、その場にいた人間のユニークさではないかと思います。そうですね、今思えば、とにかく、色々な人間が雑多に集まっておりました。そして、それぞれが一様に、妙に一所懸命の働き者でありました。加えて、当時の責任者は端から見て、いかにも徳を積んでそう、言葉を変えれば苦労してそう…、もちろんこれも後々思うことですが、つまり無神経でない専門性を持っていたと、何となくですがそう判断できるのです。極めて概念的ですが、よくもまあこんな輩ばかり集まっていたって感じです。
医学というものは、悲しいことを少なくするべく発展した学問といえます。ですから、少しだけ悲しい学問であると言えるかもしれない。ただ、悲しかったものだけを改善させようとしても、そこから得られるものは幅が狭いですね。しかも、あまりにそのことにこだわりますと、逆に予想もつかない別の問題が出現してしまうこともあるのです。だとしたら、むしろ楽しく考えることも一つの手段です。例えば、この子どもはこうやったら倖せになるんじゃないか、こういう工夫をしたら親御さんも我々ももっと愉しくなるんじゃないか、そのように笑顔で道筋を整える方が制限なく進歩の幅が広がるように思えます。
現場で大切なことは、子どもたちでも親御さんでも、つまんない顔していたら何とかする、来たもの皆んなウェルカム、何か嫌なことがあったら周りのせいにしてもいい…、つまりそんなこともあるだろうという度量です。そういう環境では、何気ない言葉にも何かしら緩和を感じることができそうです。だから余計に心に残るのではないでしょうか。
ある母親の言葉です。ここであの人と話していると、いつのまにか、自分が感動的な話をしていることに気づくと言うのです。結果、喋り過ぎて心が軽くなっている。どうしてあの人は自己陶酔的な話を私にさせるのだろうかって…。
おだて上手、褒め上手、聞き上手という、元々専門性がある人ってやはりいるものです。これこそが「むす靈」ですね。
しかし当然、あまりにもお節介な緩和は返って為にはならないこともあるでしょう。多少は負荷をかけるということも考えねばなりません。心の重みは重みとして取っておけば、その分、別の思いが浮かぶこともありますし、結果、母親の心には、やや強めの形が生まれるのではないかと思います。
ただ、その形には何かしら上手く言葉を入れ続けなければなりません。さて、ここで父親の出番です。あの優先席での出来事のように、妊娠させた人も晴れて優先席に座ることが許されるのです。
父親の大切な役割とは何か? これまた抽象的になりますが、母親に対して、あなたが主人公だと感じさせることです。これは先ほど申した、自ら感動的な話をしてしまうことと同じです。ただ父親はあまりしゃしゃり出てはいけません。普通の気圧に戻す努力をするだけ、触媒という役目に徹しましょう。もちろん、こういったお話しは精神論ではありません。単に、父親が持つ命(めい)の気楽さというか、明るさというか、窮屈でないいい加減さの大切さを言いたいのであります。
人間の知性というものは、相手の疑問にどう答えるかよりも、疑問そのものをどう案じるかで推し量れるのかもしれません。そうでないと、人間の心の調和、そしてその解決にはなりません。そうですね、現実的にはただ単に、自分だったらこういう緩和をしてもらいたいという緩和を他人にもしてあげる、して貰いたくないことはしない、それだけです。そして最も大事なことは、そんなことを真剣に考える自分という存在を確認できるかどうか、要は真剣に一所懸命なのかってことでしょうね。それは昔ながらの日本人の当たり前です。無くさないようにしなければなりません。
「直す」という言葉があります。
それは修理する、治療するという意味ではありません。宮崎弁で片付けるという意味です。つまり、負荷を抱えた心をリセットする、心の形を整えるということであります。
もし産むことを選択した場合、その母親には後々の人生において、その選択を皆から褒められる、そんな出来事がたくさん起こって欲しい、そう祈りたいですね。一方、もし産まない選択をした場合、その重みは消えません。しかし、亡くなった赤ん坊の進化はもちろんですが、重さを背負いながらも一つ一つ心の形を作っていって欲しい、そのような母親の専門性の進化を祈りたいと思います。
祈るということは、人間の専門性で最も重要なものであります。形のないものに形を与える、そして整える、これが祈りです。例えその対象が他人であろうと自分であろうと、少なくとも祈った人の心の中にはその形が既にあるということです。
『専門性の進化』について
今現在の私は、取り立てて何かが変わったとは思わないのですが、手術ばかりしていた頃は、不思議なことに、数字や理屈で説明できないことに対して如何に自分自身を納得させるのか、そう思い悩むことが多々ありました。ですから数字にはこだわらない、むしろ捨てる努力をしてきたのです。しかし徐々にですが、今は逆です。むしろシンプルに数字や理屈を利用しようと考えています。これまた実に不思議です。あまりにも沢山の人間臭さを見てきたせいか、何かが鈍感になっているのかもしれません。
先日、ある高名な僧侶の方からこう言われました。「古希も間近、未だ外科医であって赤ん坊を愛することを自慢してもいい。誇りに思えば、また世界が少し歪んで見えるかもしれないぞ」 しかしその本音は、外科医としての私の命(めい)、つまりお役目は未だ済んでいない、力不足ということを仰りたいのでしょう。特に若い外科医をもっと鍛えろということかもしれません。
今の世の中…、赤ん坊自身が楽しい、もしくは愉しかったと思える世の中なのかい?
そんな問いがなくなるまでは、もう少し背伸びせねばなりません。はっきり申せば、我々の専門性はそれで進化するしかないのです。そうですね、まずは10年くらい後に、私自身の専門性というものが古びていると思われないようにゆるりと努力しておきましょう。何とも気の長い、気の弱いこと…とのご意見もございましょうが、でもまたその内に、目頭が熱くなるような出来事も起こるのでありましょう。恐らくそこには、今までとは異なる専門性の進化があるはずです。
改めて、生まれた赤ん坊、亡くなった赤ん坊、もちろん思い出すことも出来ない赤ん坊も含めて、その魂の進化を祈ります。
また同時に、親御さん、私の仲間たち、そして皆さまそれぞれが持ってらっしゃる大切な命(めい)…、その専門性を心から尊重させて下さい。大変僭越ではありますが、その進化を心からお祈り申し上げたいと思います。
※ 生命尊重ニュース⑥ p7-13, 42. 2025. 参照.
「神楽もまた、直しです…」