道中二足の草鞋|10. 医療者
手術は、結果ではなく、その過程に対して外科医自身の心がどう響いたのか、つまり流れの美を確認する作業が大切です。実はそこに手術のコツがあります。率直に申せば、響かない外科医に進歩はありません。
ただ、そうあるべき“響き”だからこそ、あまりに響きすぎて、木に登ることも度々でありました。
例えば、「この手術は自分が作り上げた」という勘違いや、「何故に響かない? 響かないお前が悪いんだ」という厚顔な思いが湧いてくるのです。外科医の悪しき非常識ですね。
無論、昔々は、それを向上心の因と解することで、多少は寛大に扱われていたのでありますが…。
そして今や、一部の非常識な外科医たちはこのように悩んでいます。
「何故、自分だけが未だに響いているのだろう」、「響いてはいけない時代に乗れない自分が悪いのか」…。何とも…、孤独そのものですね。確かに今でも、「若手へのツッコミが判りにくい」と、よく言われるのであります。
そして、その非常識外科医のそのまた一部は、そんな気持ちに耐え切れず、むしろ馬鹿馬鹿しくもなり…、「手術や外科医を定義することはもう止めなさい」、中にはそんな啓示が降りることもあるのです。何とも…、心が消えてしまいそうです。
しかしそんな非常識外科医にも、切った西瓜の大きな方を相手にあげようとする心持ちだけは変わらずに保存されているようでして…、うーむ、愛おしくも、哀しいモンです。
今の世の中は、自由、平等、権利の理屈で、多くの人が賛成するなら正しいとせざるを得ない時代であります。しかも、時と場合で変わることが多すぎて本来の道を時に踏み外しがち…、つまり、眼の前のことへの当たり前の対応が疎かになっている、そう思えてしまいます。
医療の進歩は、それに関わる人たちが幸福を感じるためにあります。
そこに初級編というものはありません。上級編もありません。つまり、段階を踏んで学ぶものではないということ…、当たり前にあるべきことは、最初から当たり前に響かせねば意味は無いのです。
何度も申しますが、何にもまして生命を尊ぶ心、そして正しいと信じることへの熱情…、これらは本質的なものとして人間に与えられているものでありましょう。そして、そこに付随する神秘的存在への畏怖という感情もまた、人が人として幸せになるための本質的なものなのです。
特に医療者は、そのことをよくよく辨えておくべきです。
医療者の心は、科学が如何に進歩しようとも、決まり事が如何に増えようとも、その「かたち」そのものは動かさないという前提で進化しなければなりません。幸福の本質を保たねばなりません。
それにしても、医療者が一生で背負う懐いは大量かつ複雑、そして、時それぞれですね。偉そうに書いてはおりますが、外科医としての後悔と反省が止めもなく湧き出てまいります。
今後、神主としての「かたち」もまた、大切に育てていかねばなりません。
「あの日、あの千木の中央部分では、大変に失礼なことをいたました…」
『 趣味とか道楽とか、そんな高尚なものでなく、あちらの方からこちらの方へ、必然かつ無償に肩を寄せ合ってくれる「お方」っているのです。
しかし、こちらが、そのことを癒しとか緩和とか、お役目としての名称を無理に与えてしまいますと、あちらのお方は遠慮して寄り添ってくれなくなります。あちらというお方の存在は、ただただ響いてしまったことで、単にお友達としてそこにいてくれるだけなのです。
このような、ある意味思いやりとも言える遠慮がちな同調は、中途半端な科学者と言われる外科医にとってはとても大切で、とても似合っていると思うのでありますが、如何なものでしょう。加えて、ロートル故の優しい裏技だとも思うのですが、如何なものでしょう。
それにしても、小児心臓外科を愛し続けることは至難の技と言っていいですね。今まで頑張り続けた皆さん、良くやってきたと胸を張って下さい。そして自慢して下さい。好きでいられたことを誇りに思って下さい。
ところで…、未だに響いている方、いらっしゃいますか?
出来れば、半分だけあちらのお方となって、こちらを少し助けて頂きたいと思うのですが、如何なものでしょう。宜しく…です。 』