Doctor Blog

コラム

道中二足の草鞋|22. 繋がり

 「こうしようか、ああしようか」だなんて、今は考えたくありません。取り敢えず、一区切りを愉しみたいのです。
 でも何はともあれ、外科医って輩は本当に厄介ですね。神職になって改めて思うことであります。
 

 社家の方々が医師になることと異なり、何の縁もない外科医が神主となること…、そこには当然、生まれ持った何かが足りません。彼らは、神職とて学ぶべきことを既に子どもの頃に身に付けておりますし、数値化できない精神的準備も整っております。残念ですが、どうしようもないことです。
 しかし、手術三昧の頃の文章に目を通しておりますと、神職としてご奉仕する勇気が少しだけ湧いてきます。僭越ながら、外科医から神主への繋がりが見えるのです。それは、外科医では味わえなかった覚悟でもあります。
 何かが始まりそうです。門下ながら、変わらないもの、変わるべきでないもの、そして、自分の中だけで変えるものを確認することにいたします。
 

 それにつけても、そんな世界は楽しみですね。
 意味付けのある視界の中で、本来は出会うことの無かった魂の進化を経験できそう…、いや、もしかしたら別の意味で、今よりは病気が治りやすい環境や、いのちが繋がるという大本までも実感できるかもしれません。結果ではなく、神主として何かやろうとする過程と姿勢に、また初々しい何かを想うことが出来るのでは…と思えるのです。それは外科医だったからこその冥利でもありましょう。繋がりに感謝せねばなりません。
 

 神さまは仰います。
 『わしゃ知らん、前から言っとるだろう。全てはお前がやること、やったこと…』
 「じゃあ、運命って何?」、そう訊き返しますと、途端に黙されます。
 「神さま、そのご沈黙はつまり、運命は変えられるということですか、変えたのも運命なのですか…?」
 『お前は何を考えておるか…、そこまで面倒みないぞ。モチを持った魂が無事旅立つところ迄は見ておるがな。自分それぞれが主人公、つまり、お前自身が主人公なんだ。ワシどもは、当たり前のことが言える人間を少数派とさせないよう願うだけ、ただそれだけなのさ…』、神さまはニヤリと笑われました。
 

 さて、お話してきたように、40数年の外科医人生には多くの反省があります。無論、今後の神職人生にもそれ以上の反省があるのでしょう。
 しかし、あの昭和晩期、外科医になりたいと思った段階で外科医に成り切れたように、神主になりたいと思った段階で小生は既に神主である…、そう言ってもいいと思います。
 繰り返しになりますが、外科医が持つ、生命を何にもまして尊ぶ心と、魂や神を畏怖する心は、人が人であるという証拠です。神主もまた同様のお役目を持つのです。それらは職種を問わず、本質的なものであります。
 

 神さまに喧嘩を売り続けたこの5年間、そして、ある決心を叶えたあの夏の終わり…、流石にバチが当たりました。今はただ…、ただただ反省の日々を過ごしております。
 

「さて、そろそろ…」