Doctor Blog

コラム

道中二足の草鞋|2. 記憶

 何はともあれ、思い起こせば東京も40年超えです…。
 一言で申せば、答えを聞く前に次の質問を飛ばす日々…、妥協と例外はあまり無かった気がいたします。
 気付けばいつの間にか、小生の性分は調布系から三鷹系へとそっと変わっておりました。それは、ちょっとお洒落でトロい男子です。無論、その是非は問いません。ただ今だけは…、箱根のお山を超えたあの当時を懐かしく懐うことができるのです。
 

 ちなみに、近年の天気予報アプリの進化は、狐日和や俄日和の時間までをも正確に予想してくれます。
 「なんてお節介な奴だ」と思うのですが、そのせいでしょうか、沛然というべき活力は無きにしも、また少しだけお喋りしたい欲求に駆られまして、つい…、あの伝説の「Drブログ」のファイルを開けてしまったのであります。
 しかし、読み直すにつけ、そして当時の記憶を覗くにつけ、何とも…、熟成不足の感が歪めません。少し黴臭くもございましてね。自分の本心を穿つような、見抜くような、斬新な神来は浮かんでこないのです。
 皆さま、小生のこの惑わしき心彩、分かって下さいます…? 
 
 「―えっ…、何ですって? あ~、やはりそのことですか、神主になった訳をお聞きになりたいのですね」
 「…うーむ」…。
 単なる思いつきだったのか、それとも定め事であったのか? (多分、揉め事はあったのでしょう…)
 昔からのお約束事のような気もするのですが、それこそ早急に敢えて手を出し、足を入れないわけにはいかない切羽詰まりの気分ともなりまして、少々乗り急いで乗り継いで、修行をお願いした次第です。
 無論、そうさせた大元の理由は心の奥底にしっかりと居座っております。
 しかし、それは、小生の潜在意識だけでなく、誰かの指示で固く封印されているのでありましょう。あの手術三昧の時代、小生の変容を寿いでくれた方々が、邪魔するにしろ助けてくれるにしろ、深く関わっていることに間違いはないと考えております。 
 

 さて、その記憶のことでございます。
 人間というものは、過去の記憶を背負いながら、その肯定と否定のもとで生きます。しかし、その記憶たちは、変わらずに残り続けるものなのでしょうか?
 中には、都合よく美化、糊塗されたものも沢山ありそうです。
 もしかしたら、他人の記憶を利用していることもあるでしょう。今までの人生では解決できずに保存してあるだけのもの、粗筋だけで発芽を待っているもの、これからの人生のために冬眠しているもの、また、心ならずも敢えて捨て去ったものもあるでしょう。前世の記憶もまた、色褪せながらもそこに混ざっているかもしれません。
 もちろん、記憶の変容は、一種、心の自己防御反応です。
 特に外科医の場合はそうですね。
 忘れることが出来るから、また、塗り替えられるから、ある意味、平穏に生きられるし、多事多難に対して戦えるのです。記憶ってものは、哀しいし、そして優しいですね。それでも唯一救われることは、赤ん坊を救えなかったという辛さより、一緒に戦った時のお互いの一所懸命さや達成感が変わらずに残っていることです。僭越ですが、それだけが外科医の安寧のための触媒であります…。
 

 確かに、外科医の記憶というものは、単に懐かしむというような生易しいものではありません。逃げ切ることもまた、どうやら不可能のようです。
 だからでありましょうか、ここ数年…、どういう形であれ、ちゃんと残っている記憶には、外科医&神主の間に、つまり、外科医のお釣りとオマケが残っている内にキチンと相対する必要がある…、忌みじくもそう考えるようになりました。今のままであれば、あの外科医の頃の魂は進化もせず、苦労もせず、居座るだけなのですから…。
 

 さてさて…、今からの新たな環境は、そのような外科医の記憶に対してどう始末をつけてくれるのでしょう。
 そこには多分、その度ごとの抜き打ち試験があるのでしょうね。それはあたかも、LINEに突然、謎のスタンプが届くようなもの…、無言の戒めですね。「勘弁して下さい」、外科医の気弱な声が聞こえてきそうです。
 とはいえ、都合良く解釈すれば、記憶というものは何が正しいと断定できないから、また逆に、その時々では正しいこともあることから、たとえ世間の常識や道徳に反したとしても「むしろ赦されることがある」と言えそうです。
 それが、庶民的な倫理感です。
 決して正しいことではないけれど、考えを重ねれば確信を持って大切なものへと変容していく…、そこには、個々人の心の救いだけでなく、大切な大きな知恵が生まれると信じます。やや早めの勉強が出来るということですね。要は、外科医であったればこそ、その内面を開く覚悟があるかどうかです。突然のLINEスタンプはむしろ愉しまねばなりません。
 それにしても、小生の性格はあまりにも楽観的で徘徊的、自己中であります。しかしこの度、新たな視点を開くことが出来ました。色々とじっくり、考えてみることにいたしましょう。
 

 いやはや、そんな40数年の幾年月が終わります。今はまだ、たまたま隣の席が空いていて、何だか居心地が良さげに見えて、後先考えずにそこに座ったにすぎません。
 外科医と神主…、今のところは、まるっきり異質でないという間柄に感謝しております。

「記憶が定着し始めた原点の地です。当然、懐かしむことができます」