道中二足の草鞋|1. 転機
この数ヶ月のブログ空白期間を難しく考える必要はありません。その事訳を敢えて口にする必要もなさそうです。自分なりの振り返りは、一応、済ませておりますので…。
実を申しますと、昨夜(節明け)から、ようやっと、まともに天井を見上げながら長夜を過ごすことが出来ております。神さまと直に向き合うことの畏れ多さを、改めて心身で受け止めた次第です。
そして小生、晴れて神主となりました。
あれこれ反省することは棚に上げて、そして、気持ちの先走りは軽く無視して、最も下っ端ではありますが、神職の階位(直階)を頂いたのであります。
とはいえ、その名に足りうる力量はまだありません。肩書を得たに過ぎないのです。
それにつけても、そこに至る道筋には、聞くも涙語るも涙の試練がございました。
そうですね、例えば、肋骨を3本折るような、もしくは、急な出血で意識を手放すような…、とでも言ったらいいのでしょうか。今までの外科医人生、何と気楽なことであったのかと思い知ったのであります。
ところで、何故に外科医が神主になったのでしょう。
「あからさま、大っぴらにお話せよ」、そう誰かが囁きます。
がしかし、神主たるもの、外科医ほど口が軽くあってはいけません。
小生は今や、「どうぞご返杯を!」の発言回数が4対6から7対3の割合となっておりますし、また、「半信半疑」という悪癖もまた、7信3疑くらいにまで人が良くなっているのです。しかも、「助けたい、助けられたい」という気持ちの割合も既に7対3へと向上しておりまして、「いいじゃありませんか、こちらは、3割も助けられることになるのですから。幸せなこっちゃ…」と、心から思えるようになりました。
「謙虚すぎやしないか」と、評判の日々を過ごしているところでございます。
誠に恐縮ですが、読者の皆さまには、どうぞご勝手に、あれやこれや妄想して頂ければと思います。
そして、外科医である小生の姿を思い起こし、神主としての華々しい所作を思い描いて、忌憚なきご助言を賜ればと考えます。
「外科医でもあり、神主でもある」という中途半端な時節、今だけの切なる願いです。
「登拝は、ただひたすらに真摯でなければなりません…」
『 小生の性格は実に徘徊的と思えます。しかし一方で、実務的かつ実行的な徘徊は嫌いなようでもありまして、行きつ戻りつ、試され試しつ、ずっとこの場所でお世話になっているのです。ですから、心の徘徊の楽しさだけは充分に味わってきました。そうですね、まあ、引きこもりみたいなモンです…。 』