道中二足の草鞋|20. 不変?
これは小生の偏見だと思いますが…、
医療の具体的手段だけでなく、医学教育やその考え方、病院経営や働き方に至るまで、欧米のスタイルを真似るようになってから、「希望が持てない、心の拠り所が無い」などと、無くしちゃいけないものを随分と無くしてしまった気がしてなりません。その内に、「外科医は上手くなければならない」、そんな覚悟も消えてしまうのではないかと心配します。
かといって、古臭いだけのものを自慢気に話すことは、多分に野暮というものです。
しかし、古いものが変わらずにあるということは、これ即ち、良きものということでもあります。あまりいじらずに、無くさずに取っておくことも大事かと…。もちろん、古いものには気を使ってメンテナンスしてあげないといけません。誰かがまた、新しい匂いを感じてくれることを期待します。自国の特徴ある医療や、伝えられてきた精神の本質を知らない限り、次のステップは望めない気がするのです。
そう言えば少し昔のこと…、広島のとある神社にて、「あなたは、かなり徳を積みましたね」と言われたことがあります。その時は少々面食らいましたが、外科医が積むべき徳を宮司さんが認めてくれたことは何とも面映ゆく、でも大変嬉しいことでした。そして、それより少し後のことです。内宮の神宮司廳から講演のお誘いを頂きました。外科医が講演で司廳に入ったのは神宮始まって以来とのこと、もちろん、穢れを祓ってから喋らせて頂きました。これまた光栄なことでありました。
しかし、その広島では、徳を、「お得が一杯ある」などと敢えて聞き間違いもしたりして、何とまあ、徳のないことをしてしまいました。そして伊勢では、講演後に強烈な直会の洗礼を浴びまして、何とも徳もない結果になってしまったのです。しかも黙っておればいいものを、講演やブログでこれらのお話を公にしてしまいまして…、もはや陰徳とは言えませんね。まさに外科医の非常識であります。
それにしても何故に、こんなにもややこしい職業を選んでしまうのでしょうね…?
自分のことも他人のことも、いつまで経ってもウダウダと心配し続けるこの性格、果たしてそれは、小児心臓外科医に向いていたのか、そして神主に向いているのかいないのか…。
とはいえそれでも、外科医は人を「治す」という必然、神主は人を「直す」という必然であります。小生的には同じですね。それほどに犬猿の仲ではないのです。ただ、混ぜ合わせることは大変に危険かもしれません…。心しておきます。
40数年も前のこと、小児心臓外科医になりたいと思いました。
何故か、「ならねばならぬ」と思ったのです。
そして数年前、いやもっと前か…、神職になりたいと思いました。
何故なら、「ならねば何かが進まない」と考えたのです。それは、あの昭和晩期の小生自身に宛てた気持ちでもあったのでしょう…。
不思議なことですが、昔々のことは…、何を言ったのか何を教わったのか、少しも覚えていないくせに、その時々の笑顔は思い出すことが出来ます。「敢えて足し算」の美学が、そのような思いにさせているのかもしれません。僭越ながら小生の場合、神職が作る徳という輪廻の中にはもう少しだけ、人誑しという外科医の徳を重ねればなりません。
「いつも、むすひをいただき有難うございます…」
『専門馬鹿にだけにはなりたくないと思っていました。
かといって、趣味したり、別物を学んだり、他職種と交流したことはありません。手術に関することだけが得意技、まして、手術を辞めた後のことなんて考えたこともなく、まあ結局は手術馬鹿の出来上がり…、いつの間にか、偏屈な人見知りとなっておりました。
しかし神主となった今もまた、馬鹿になろうとしている自分がおります。小生の中にいる、あの当時の分かりにくい自分が何やかんや言ってくるものですから、面倒くさくも愉しくも、付き合うしかないのです。
無論、そんな自分は皆さんに迷惑をかけることもあろうに…。でもそれでも、今回はより高度な馬鹿になれそう…、何だか楽しみなのです。根っからの馬鹿者とはこういうものでありましょう。
専門馬鹿としての利点と欠点は多々ございます。一つ申します。
馬鹿である限り、師匠の言うことは、鵜呑みにできます。いや、せざるを得ません。それは、術や心の修行ではとても大切なことです。変わらずの馬鹿を演じることで、取捨選択なく、心塊をストンと腑に落とすことができるのです。しかも、そのような徒弟制度には、専門馬鹿なりの愛すべき愛があります。
特に理屈が多い昨今の環境においては、馬鹿はバカなりに何も変えない、何も飾らない…、そんな覚悟が何を置いても必要でありましょう。古希間近で新人神主の中今、まずはそれなりの価値感を探り、そして記憶を作らねばなりません。
ああそうだ、あれは何時のことでしたか…。
歌舞伎町のお姉さんから、「貴方って本当に手術馬鹿ね」って言われたことがあります。大変に微妙な気持ちとなりましたね。でも今だけは、「神主バカね」って左目だけ瞑られる…、そんな時が来ることを期待してしまいます。多分、微妙以上の気分になることは間違いないでしょう。恥ずかしながら、専門馬鹿ということは、小生的にそういうことです。 』