道中二足の草鞋|7. なおす
「君ってヤツは、何でこんなに感動的な話しをオイラにさせてしまうかなあ。つい喋りすぎて、こちらさんも、あちらさんも、軽く頬を染めるような…」
うーむ、何だか目だけで嘘付く気分でございますが、この世には確かに、根っからの“話しさせ上手”の方っているのです。
「えっ、何だって…、ああやっぱりそうか。君は宮崎県人なんだね。だから人を乗せるのが上手いんだ」
この発言を聞く当の宮崎県人は、目を丸くして、ただ黙しております。心だけが “じゅわっと”上気しているように思えます。
どうやら、彼は伝統的な人見知りですね。しかも、決して親切そうに見える訳ではございません。叉手の所作だけが微妙に綺麗なだけであります。(さて、ここまで書けば、もしアナタが宮崎県人ならば、彼の相貌が容易に想像できることでありましょう…)
しかし、その朴訥な風体から繰り出されるもの、それがまさしくあの伝説のむす日(霊)なのです。くだんの“話しさせ上手”自慢の特殊能力であります。(これまた、ここまで喋れば、宮崎県人の誰もがその当たり前の力を容易に理解できることでしょう…)
相手の心にぽっと火を灯し、自ら感動談を滾らせていつのまにか言霊とさせる…、そして灯されたお方の周りにいる方々も、お任せで元気になってしまう…、まるで作られたシナリオのようですが、このむす日の物語は、宮崎某所での実際のものです。
ある大学院某教授は、これこそが宮崎県人ならではの優しさ…、即ち宮崎ブランドと申しておりました。なるほど、めったに主役にはなれないだけに、やられ役だけは元から得意なのであります。
そうですね、懐いを馳せますと、宮崎県人はその優しさ故に生き延びてきたのでありましょう。
それは、神話から人の世へと繋がる、あの時代に生まれたものですね。厳密には神武東征の少し前あたりでしょうか。そこから根付く永劫の仕来たりと考えます。
とはいえ、宮崎県人にとりましては、単に心を自然発火させ、直ぐにフーフーしてあげるだけのことです。飲ませる薬も、塗る薬も、掛ける言葉もそこにはありません。無論、満足心なんて無粋なものは皆無です。
それは、単なる心のリセットです。つまり、「取り敢えず、一旦、元に戻そうか」というお節介にすぎません。それ以上でもそれ以下でもないのです。
それを宮崎弁で、「なおす」と言います。
僭越ですが、今後の小生は、外科医の頃と何も変わらず、赤ん坊だけでなく、親御さんや医療者たちとも接し続けることになるのでしょう。小生の階位は「直階」、いみじくも高き直き「むすひ心」を持たねばなりません。
しかと、「むすひ」させて頂く所存です。
「むすひの神さま、随分とご無沙汰でございました…」