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コラム

道中二足の草鞋|6. かたち

 「今日はこれだけしか無い、さて何にしようか…」
 年喰いますと不思議に、「これだけしか無い」という小集団を幾つか発見してしまいます。
 そして、高い確率で選び取る愉しさを思うのです。
 恐らく、数少なく残った「これだけしか無い」ものの中には、選択するだけの価値、もしくは余裕ともいうべき何かがあるに違いありません。沢山あれば、「何でもいいや」という気分ともなりましょうからね…。
 

 さて、神主の資格を頂いてからというもの、何かが相当に変化しております。
 外科医でもあり、神主でもあるという中途半端な立ち位置だけに、やや重めに課せられた義務がある気がするのです。ただ、その何かを具体的に説明することはできません。何かは何かなのです。形らしきものは少しだけ見えるのですが…。
 うーむ、そうか…、もしや、真っ当な人間になろうとしているのか?
 

 それにしても、最近の小生は“ホンワリやんわり”していますね。
 心の「かたち」というものは、幾つかの価値を感じてから決めればいい、かたちが熟し発酵する時を待てばいい、赦しを説明できる所作の後で教義や戒律の無い本来のかたちを固めればいい…、そんな風に過ごす毎日です。水に流すという言葉は不適切ですが、何だか存分に選ぶことが許されているようで…、今までの人生が祓われ、清められていく気分なのであります。
 そのような状況ですから、一旦「かたち」が決まりさえすれば、例えどのような言葉や思考が塗布されようと、あまり問題は無さそうです。少々の大和言葉をもって、柔らかく文字に置き換えるだけですね。またそこから、さらなる新たな「形態(かたち)」が生まれるのでしょう。
 それは日本固有の優しき文化でもありますね…。皆の緩和へと繋がっていくのです。
 ただ、心のかたち以前に言葉を持たせようとする限り、緩和は望めません。まずはとにかく、心に確固たる「かたち」があることが肝要です。上等な心のかたちの上に上手に言葉を被せてあげる、そうすれば文化は繋がると信じます。
 もちろん、そのホンワリやんわり感は、小生にとっては、「しばらくは、多少いい加減でいいんだ…」という思し召しではないかと、これまた都合良く解釈しております。信じるものは救われると信じたいのです…。
 

 ところで、神さまは何をお望みなのでしょう。
 僭越ですが、現在の小生への御心を代弁させて頂きます。
 神さま①…『あのさあ、外科医としての積極的な気持ちをもう一回奮い起こして、もう少〜しだけ、コッチ側に寄って来てくれる? 何故なら今の君の状況は外科医&神主だよね。神さま系だけでは無理があるから…。』
 神さま②…『もちろんそうよ、それは今のアナタだけにできることだし、私たちは、ただただ、時間を早く感じさせようとするだけ。でもちゃんと制限速度は保っているからね、安心なさい。』
 神さま③…『ところで、祈りというものは外にあるものではないし、まして、出すものでもない。付随する時間とともに、お主自身の心に「かたち」としてある。だから、まだまだ褒めそやすことは敢えてしない。でもこちら側に寄り添ってくれるのであれば、段階を問わず、少しだけコトバをあげようか。それまでは、御神酒と変若水で、お清めでもお祓いでもしておいてくれるか…。まずは、ゆるりとな…。』 てなところでしょうか。
 憎らしいほど、ホンワリやんわりとなりますね。
 

 神さまのご意思を選択して、皆さんの心の中の「かたち」を整えること、これもまた、神主の大切なお役目の一つです。まずは言葉を上手く使えねばなりません。要は言葉の「含み」あるのみですね。「繍」を「うつくしい」と読めるかどうかです。
 もともと日本人は、心の「かたち」の中に懐いや祈りを残せるべく、柔軟に語りかけることが得意な人種です。聞く側もまた心持ちを柔らかくしていれば、必ずや新たな「かたち」が生まれます。そしてその先に、「むす霊」が生まれると信じます。

「食は上薬、冬の薬膳、ホンワリやんわり…。
それにしても、出雲は畏るべし、ホンマモンの医師&神主の多いこと多いこと。
さすがは醜男さんと少彦名さんの里です」

 

『 我々外科医は、日々、いのちやその繋がりについて色々と考えさせられます。いやむしろ、色んな答えを積極的に求めなければなりません。特に手術を受ける子どもの幸せとは何か…、常ならぬことを解決させるのではなく、ただ平和になるための手段とは何なのか…、その都度その都度、考えなければなりません。
 医療というものは全てにおいて、そこに繋がる“何か”があるから上手く機能する…、小生は頑なにそう信じております。その何かは、人であっても物であっても妄想であっても全て平等に優しく繋がるのです。
 もちろん、何の関わりも無さそうに見えるかもしれません。
 でもその何かは必ずや、現場にいる医療人を、精神的にもパフォーマンス的にも緩和してくれるはずです。
 人と人が偶然に出会い、集って人を助ける、もともと医療とは人と人とが繋がる奇跡の商売であります。ですから、手術にしろ、学問にしろ、遊びにしろ、何にしろ…、繋がる何かを大切にすべきと考えます。もし運命があるとすれば、そういう繋がりから与えられるものでしょう。最も大切なものは、思いと言葉です。
 さて、神主としての新たな使命は未だ不明瞭であります。でもそれでも、小生が神職となって、一人でも二人でもその意義を感じて頂けるのであれば、それはそれで意味があると信じます。
 外科医&神主という敏感な中今、考えることを考えて、反省することは反省しておきます。 』