道中二足の草鞋|5. 色合い
外科医には、世の中すべてを外科的に眺める癖が染み付いています。
そのせいでしょうか、手術分の記憶だけは、しかと書き加えられていきます。色褪せることはまずありません。
僭越ですが、腕が上がるほどに、また当事者になればなるほどに、その色合いは映え、深く懐かしむことができます…。そうですね、確かに、その記憶の鮮明さだけを眺めていますと、自分的には「何て仕事熱心だったことか」と思えるのです。
しかしそれだけに、手術以外のところでは極めて能動性と同調性に乏しい存在でもありまして、そんな輩が神主を拝命するという…、皆さまにとっては矛盾の極地、論理の右往左往、右脳の崩壊状態でございましょう。「外科医の常識は世間の非常識」という諺があるかどうかは知りませんが、それはまさにそんなもの…、ある意味、九紫火星の底力でもあります。
ところで、神主の基礎って何でしょう? 獲得すべきことは何でしょう? もちろん、すべては神さまの思し召し、重々承知しております。
ただ今の小生は、外科医とすればベテラン、齢は古希間近、なれどその実は単なる新人…、微妙な立場です。
まず必須なのは、真摯かつ紳士な態度でしょうね。謙虚が一番、質素が二番、決して華美や名声を求めてはいけません。外科医と違って神主はモテる…なんて考えてもいけません。新たな立場で記憶を書き加えていきましょう。古新の懐いを上書きすることにいたしましょう。
大切なことは、妙に首肯したり、厳密に比較論証する必要はないということです。
つまり、疑うことではなく、今そこにあるものの本質を素直に見抜くことですね。そうなれば、たとえ詰めの甘い記憶ばかりが積み重なったとしても、その解決は昔ほど遠くはなさそうです。
さて、外科医の記憶を並べた当ブログ、今、読み直しております。殆どは小生の反省ですね…。特に手術現場での人間への懐いは止めどありません。
ただ、僭越ながら今まで、かなり一所懸命に赤ん坊の手術をさせて頂きました。
多少の酸い甘いは知っております。無論、外科医の甘さは誰よりも知っております。ですから、割と奥手、割と遅咲き、人生色々ながらも、あの昭和晩期の骨格だけはくっきりと見詰め直すことが出来ます。
今後、新たに生まれるであろう記憶は、恐らく今までと異なり…、絵画の中の、何も描いていない空間に価値を見つけるようなものでありましょう。少しだけ時間が止まるような、そして、あの当時よりは少しだけ鼻の奥がつんとするような、大人っぽい、かつ上品な記憶が生まれそうに思えるのです。
今はただ、「いいなぁ、ちっちゃい思い出ばかりで…」、そんな倹しい、あの昭和晩期の愛おしい記憶に浸るのみです。
うーむ、何だか…、最近の小生は、前説や言い訳ばかりをしているようです。
自分でも訳分からぬ理屈ながら…、記憶というものは、懐かしむというよりは、むしろ遊び続けることができるもの、そんな気がしてなりません。大変に不思議なことであります。でもこういった感情は、外科医&神主である今の小生にはむしろ相応しくも思えてしまうのです。これまた奇妙ですね。
ところで、神主にも、理論肌、学究肌、実務肌、スピリチュアル肌、政治肌、等々…、色々の肌色があると聞いております。果たして小生はどの肌に染まるのでありましょうか。
「自分、心を入れ替えます…」、そっと呟く毎日です。
「一応合格、でも努力次第…、新たな記憶が生まれそうです」